戦前から戦中にかけてマテ・ラランジェイラ社は、川上の南麻州ポンタ・ポランから川下のイグアスまでの流域全体に強い権益を持ち、栄華を誇った。
ところが第2次大戦がはじまるとアルゼンチン政府はブラジル産マテ茶に規制をかけ始め、会社は苦境に立たされた。さらに1944年4月、ナショナリズム政策を進めていたゼッツリオ・ヴァルガス独裁政権は、同社に与えられたコンセッション(開発権益)はキャンセルした。
会田さんは「これ以降はマテ茶の苗をアルゼンチンに持って行って、あちらで生産するようになった」という。
グアイーラは、パラグアイとの国境地帯として政府の直接的な管理下(Serviço de Navegação da Bacia do Prata=SNBP)に置かれた。
マテ・ラランジャ社は以前の特権を失い、ただの会社になってしまった。困った同社は、グアイーラの土地を分譲する事業を始めた。そこに呼びこまれたのが日本移民だった。
会田さんによれば、日本移民が大挙してやってきたのは戦後だ。「最初に住みついた日本人は1954年に来た庄子二郎さん。彼はアマゾンの高拓生だった」という驚きの事実を明らかにした。
アマゾン河中流のパリンチンスに入った高等拓殖学校卒業生(高拓生)の本部施設や黄麻(ジュート)を生産していた所有地は、第2次大戦中に敵性資産として連邦政府に没収された。そこで多くが南に流れてきたが、その一人がなんとブラジルの西の端グアイーラまで来て、最初の一人になっていた。
パリンチンスからグアイーラまで直線距離で2400キロ、実際の移動距離は4千キロ近かったのではないか。
北パラナのアサイ移住地からは松山慎次郎さんが視察に来て、土地の有望性にほれ込んだ。彼が販売代理人となって北パラナ一体から日本人を呼び込んだが、アサイの人が特に多かった。「ウマラマまでの土地は砂地が多いが、この川沿いはテーラ・ロッシャだからね」と説明する。
『60年史』(87頁)によれば、日系初入植は1954年7月の庄子二郎、石垣寅雄、島田新次郎、橋本梧郎ら8氏。日本人会は1957年1月に創立され、60年に文協に改組とある。
会田さんは「1970年代には日本人が160家族ぐらいにまで増えた。コチアや南伯の単協もありました。フェイジョン、棉、トウモロコシが多かった」という。
会館の歴代会長写真を見ると、初代会長は「中島昭」とあるが年代がない。創成期の功労者なのだろう。年代が最初に書かれるのは2代会長の庄子さんで1957~58年。松山さんは第4代会長で63~73年の11年間も務めた。(つづく、深沢正雪記者)