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『ふろんていら』50号に思うこと

『ふろんていら』50号の表紙

『ふろんていら』50号の表紙

 サンパウロ州アルミニオ在住の伊那宏さんが主宰する詩歌サロン『ふろんていら』が、記念すべき50号を9月に発行した。個人で年4回も定期刊行を続ける苦労は並大抵ではないだろうに、12年半も続いてきた。もちろん、伊那さんの志に賛同して投稿する人がいればこその快挙だ▼本人筆による一文「その歩んで来た道」(26頁~)を読んで、考えさせられるところがあった。もともとは伊那さんが主宰した別の文芸同人誌『国境地帯』第11号に「詩歌欄」として登場し、のちに独立して一冊の小冊子になった。《当サロンは国境地帯を彷徨する〝文学亡者〟たちの集まる場所》として投稿を呼びかけたところから始まった。亡者とは「文学することが三度の飯より好き」な人、いわば文学に憑りつかれている者という意味らしい▼祖国を離れて生きる移民は皆、心の中に国境地帯のような、どちらの領域とも言い切れない中間域を持っている。その精神的な領域を日々、彷徨する文学亡者たちが、思いの丈を吐露する場所が、この『ふろんていら』らしい。〝亡者〟たちはきっと旅券の代わりに、自らを証明する文芸作品を携えているのだろう。なかなか洒落だ▼第1号には12人が作品を寄せ、一番多かったのは第17号で増勢47人にもなったというからすごい。つねに35人前後(実作者は20~22人前後)はいたが、45号あたりから30人(同18~20人)を切る状態になったという。50号現在で実作者15人、平均年齢は82、3歳、最高齢は96歳とか。《この現象(高齢化)は現今の移民一世社会の衰退という宿命と同一にするもので、それから逃れることのできない時代に、今私たちは生きているわけである》という伊那さんの言葉は他人ごとではない。そのまま邦字紙にも当てはまる▼作者が減ったのは多くの場合、亡くなったためだ。うち代表的な5氏の作品、「日向ぼこ無我の境地を探りつつ」(斎藤光之)、「公園の芝生に寝ている酔いどれの背なに黄色い蝶々が止まる」(則近正義)などを紙面で挙げ、伊那さんは《五氏とも、本誌にて、自らの文芸活動の〝有終の美〟を、心置きなく飾って下さったものと筆者は固く信じている》と書く▼さらに《文芸とは、己自身の〝業〟みたいなものである》とし、《それは〝思い〟という形をとり、文字を借りて保存しておきたいと強く願望するようになる》。そのための〝器〟が同誌の存在価値であると論じる▼コラム子も、伊那さんの心境が痛いほど分かる。92年から研修記者として3年ほどパ紙で働いた後、いったん帰国。群馬県大泉町でデカセギに混じって工場労働をしていた97年、当時の吉田尚則パ紙編集長から「邦字紙を看取りに来ないか」との国際電話が来て、考えた末、再びブラジルに戻って来た▼その時の電話には「数年後には終焉を迎えるかもしれない」―そんな雰囲気が漂っていた。事実、翌98年には経営難から、日伯毎日新聞と合併して現在のニッケイ新聞になった。当時在籍していた戦後移民の記者・編集幹部の多くは定年し、冥界に旅立った▼文学亡者は自ら書くことができる。だが、普通の移民は書かない。そんな人からもいろいろな話を聞き、貴重な体験を記録する。日本の大新聞やブラジルの大手メディアには扱われることがない、日本移民の何気ない日々の記録を文字にして残すことが、邦字紙最大の使命だと痛感する。伊那さんの一文を読みながら、邦字紙は一世社会の〝有終の美〟を記録し、看取るためにあるのだと改めて襟を正した。(深)