2年ぶりに日本へ一時帰国した私は、離伯間際になって、39年ぶりに奄美大島在住の家族ぐるみの旧知の友人夫妻に会いに行くことを思い立った。帰り支度も控えているため、わずか一泊二日の短い旅であった。
「思い立ったが吉日」と、早速電話をしてその旨を告げると、お互いが人生後半に差し掛かり、これが最後かとの思いをひそかに抱きつつ、大歓迎してくれた。
その時の電話でなにげなく、奄美大島出身の日系移民の情報がほしいことを短く伝えた。
すると、そこに待っていたのは、60年以上も前にブラジルに渡り、今では音信の途絶えた有縁の人のことを、いとおしく、やさしく、心の底から懐かしそうに語ってくれた人々であった。
その中には、今、有料老人ホームでお元気に暮らす94歳の女性もいた。
▼「新聞のチカラ」
新聞のちからとはなんとスゴイものか、このたび私はつくづく思い知らされた。
実は私が何気なく尋ねたその一言を、友人の鮫島さんが新聞記者に知らせた。すると私どもが訪問する前日に、記者は右のような文章を掲載した(「南海日日新聞2016年11月26日付け」)。
記事内容は大変立派だが、決して「調査」といった大げさなものではなかったことを明記し、お許しいただきたい。
同新聞社は合わせて次のような資料コピーを届けてくれていた。
「ブラジルの大地で(5)―奄美移民八十年の奇跡」「ブラジルの大地で(8)」、2008年1月13日号「日系移民100年―心の距離の差 サンパウロ石田博士」、奄美大島竜郷出身の松原文一氏作成のサンパウロ在住者名簿(作成年月日不詳)、また、2001年4月号における連載として「ブラジル(ブラジル)橋 移民の村・宇検村 上(「架けた故郷への思い」・中(千金夢見て働き詰め)・下(父母らの里で望む永住))であった。
いずれも非常に興味深く、また移住者たちの艱難辛苦の思いが淡々と綴られていて、読む人に物を思わせる内容である。
解説によると、「ブラジル(ブラジル)橋」という橋は、奄美大島宇検村の湯湾地区を流れる川に架けられているそうである。
「『ブラジル橋』は村にとって移民した人たちとの結びつきを知る唯一のものだ」とあり、湯湾川上流にある幅3メートルの小さなコンクリート造り。
この橋の寄贈案は、昭和53年12月、ブラジル・サンパウロで宇検村出身者の懇親会の席上、満場一致で決議されたという。当時サンパウロの平均月収が200クルゼイロという時代に、4万1千クルゼイロが集まった。
奄美からの移住者167世帯872人のうち、宇検村から約6割に当たる85世帯492人の故郷を思う気持ちが一集して実現したと報告されている。
今回、私はその橋を実際に確認することはできなかったが、写真で見る限りにおいても、形は素朴で小さな橋であるが、堂々とした橋名が刻まれている。(つづく)
ブラジル情報募る=毛利さん、二十八日に来島(南海日日新聞2016年11月26日付けの記事)
奄美群島から戦前、戦後、ブラジルへ渡った移住者らの調査を行っている毛利律子さんが28日、奄美大島に入る。関係者は移住に関する情報を募っている。
毛利さんは1949年生まれの沖縄出身で現在、ブラジルに在住。毛利さんの調査を支援する奄美市の鮫島末次さんは「なぜ、ブラジルに渡ったのか。当時の奄美の情報を含めて移住に関する情報を持つ方、移住者とゆかりのある方は連絡してほしい」と呼び掛けている。