▼森山光昭さんと妹・田畑光代さんのこと
11月28日夕方、友人の鮫島氏が探してくれた喫茶店で田畑光代さんと会うことになった。できるだけ田畑さんのお宅に近い場所にしたいと思い、ある一軒のコーヒー店に入った。
ガッツリと深く炒ったコーヒー豆の香りが表にまで漂う、小さな喫茶店でHUBS Coffee Roastersという。
マスターの名前は溝渕哲徳(みぞぶち・てつのり)さん。すっきりとした眼差しをした溝渕さんは実にコーヒーの豆に拘っている。
「ほんとに美味しいと思って喜んでくれる人のために淹れるコーヒー。自分の好きなものだけを世界から集める」をモットーとしているという。
四国高松市の出身で奄美に棲み本物のコーヒーを提供する道を選んだ。「若い人に、カジュアルに、敷居を低くして、ジュースと同じ感覚で本物のコーヒーを楽しませる」ことをたいせつにしているというのだ。
「豆はどこから?」と尋ねると、「ブラジル、ミナス・ジェライスにある福田トシオ、バウ農園です」という。この答えにはほんとうに驚いた。
私は思わず、「実は今からここで、ブラジルに移住した親戚の方にお会いするのですよ」と少々興奮気味に言った。「偶然が偶然を呼ぶ」とはこういうことを言うのだろうか。
少しの間、コーヒー談義に沸いているところに、人懐っこい笑顔の素敵な女性が現れた。田畑光代さんだった。
光代さんには一人の実兄光昭さんと、父親違いの弟、恵(めぐみ)松郎(まつろう)さんがいる。光代さんが生後8カ月の時に、父は亡くなった。生活は貧しかった。一家を支えた兄は子供心にも働き者で、小さな畑を耕し家族を守っていたという。
その兄がブラジルに行くことになった。光代さんは幼くてそのころのことを、ほとんど何も覚えていない。奄美大島笠利町出身の光昭さんは鹿児島で農業の研修を受けたのち、昭和37(1962)年、あるぜんちな丸で神戸港からブラジルを目指し、リオデジャネイロのテレゾポリスに入植したという。人格者で努力家であった光昭さんは四国出身の女性ハルエさんと結婚し、仕事も成功しているようであった。
昭和53(1978)年、母が60歳の時、団体旅行で渡伯し、光昭さんと会って一カ月間滞在し、「その生活ぶりを実際に見て安心した」と語っていたそうである。光昭さんはパトロンとの関係もよく、大きな農場でトラックを数台所有し大勢の従業者を雇っていた。リオで農業関係の実績により表彰されたこともあったという。年末には必ず年賀状が届いていた。
二度帰国したが、そのたびに鮮やかな蝶々の壁飾り、ネックレスなど、珍しいお土産をたくさん持ち帰った。長男、次男も後年、出稼ぎで日本に来たが、その後、兄が亡くなってからは兄家族と連絡が途絶えてしまった。
光代さんは今、祖先の位牌や仏壇を預かっている。だが、自分の里のことだけでなく、嫁ぎ先の先祖の守り方も併せて奄美の慣習に従って片づけなければならない問題を抱えている。
それはともかくとしても、遠く離れて生きることになった兄のことを思うと、やりきれない思いになる事があると切なそうに語ってくれた。
さて、光代さんの弟・松郎さんと兄光昭さんは10歳ちがいであった。その兄を頼って渡伯し、1979年、サンパウロで1年ほどポルトガル語を勉強した。その後、リオに移り兄と半年ほど暮らしたが、兄のいた場所は遠くて不便だったために、リオ市内に移り、20年ほど極真流の空手を教えた。
その後にアメリカに総合格闘技としての空手の指導者として誘われ、いったん極真流のリオの支部長の元を離れてアメリカに渡ったが、12年ほど前に奄美大島に戻り、現在では姉の近くで生活している。
松郎さんも兄光昭さんとは音信不通となり、日々、兄のことを案じていると寂しそうに語っていた。松郎さんは今だにポルトガル語を忘れず、帰り際には「ボア・ヴィアジェン」と明るい声であいさつしてくれた。
握手をしたその手は、空手指導者のごつごつとした両手であった。(つづく)