2017年7月7~9日、コロニアを代表する祭典『日本祭り』が第20回目の記念すべき節目を迎える。「海外最大の日本祭り」と称される同イベントの歴史を振り返り、また、日本祭りの祖となった「郷土食郷土芸能祭」を始めたブラジル都道府県連合会の網野弥太郎元会長に、当時の様子を尋ねた。
日本移民90周年を記念して、1998年7月24、25日にサンパウロ市内のイビラプエラ公園マルキーゼ会場で「第1回郷土食郷土芸能祭」が開催された。
開催にあたっては当時のイビラプエラ公園所長からマルキーゼ会場の使用許可や、警備の問題など、初の大規模なイベントに四苦八苦するなか、県連役員が奔走し、またブラジル人の「日系人」への信頼で準備は無事に一通り終えた。
祭りには27の県人会が参加、またトヨタやブラデスコなどの企業も出展。茶道裏千家や生け花協会も参加し、日本文化を披露した。両日多くの来場で賑わい、6万人という記録を出した。
続く第2回は来場者数は激増。会場内は立錐の余地もない来場者の多さに嬉しい悲鳴をあげる状態となり、次回からの開催場所に頭を悩ませることになった。
第3回(2000年)では来場客や出展企業増加のため公園内に特設会場が用意された。郷土食を出品したのは22県人会、芸能披露は19県人会。母県紹介の展示コーナーには25県人会が参加した。
第4回(2001年)には34県人会と3団体が郷土食を出し、芸能祭に19県人会、19団体が出演した。
続く第5回(2002年)は一転して、前回までの2倍も広いサンパウロ州議会の駐車場へ会場を移し、名称も『フェスティバル・ド・ジャポン』に。
当時県連会長を務めていた宮城県人会の中沢宏一会長は「記念すべき回だったのに、一番大きなスポンサーが最後になって手を引き、大赤字を出した。でも次の年は成功した」と危機を乗り越えたことを強調した。
第6回目(2003年)は「戦後50年」というテーマで開催。在聖領事館のブースも初出展。前回の赤字決算から県連内で開催に対する不安の声も聞かれたが、約10万レの黒字を計上した。
第7回(2004年)は「サムライ」、前年に公開され大ヒットを記録したハリウッド映画「ラストサムライ」の侍人気にあやかった。会場内では鎧や兜等が展示され日本ファンを喜ばせた。
現在まで続く、サンパウロ州農務局イミグランテスイベント会場に移ったのは第8回(2005年)から。テーマは人気の「アニメ・漫画」。イベントの目玉として50メートルの巻寿司「絆寿司」を実演し話題となった。
第9回(2006年)、テーマはずばり「まつり」。7月15、16、22、23日の二週末開催となり、郷土食に40県人会が参加。盛り上がりをみせた。
記念すべき第10回(2007年)は「美と芸術」。50の食のブースが出展され、内43は県人会。約18万レの黒字となった。その一部が県連創立40周年記念誌の出版費用に充てられた。
移民百周年を迎えた第11回(2008年)はそれ自体をテーマにし、遠くパラグアイのイグアスー移住地からもブース出展があったほか、44県人会が参加した。
「環境保護年」がテーマでの第12回(2009年)会場には、種類別のゴミ箱を用意して地球に優しい祭りを目指した。来場者は約18万人の大盛況だった。
第13回(2010年)は「ふるさとの伝承文化」。パラー州ベレンの汎アマゾニア日伯協会も参加、展示ブースでアマゾン地方の写真展示や熱帯果樹のジャムなどが販売されすぐに完売した。
第14回(2011年)は「食と健康」「甦れ美しき日本」と二つのテーマが用意された。会場ではコチア青年の農産物の販売や着物に身を包んだ日系人の「ミスニッケイ・コンテスト」なども、来場客を楽しませた。
第15回(2012年)は「共存する進歩と環境」。企業の出展では日本企業の最新技術などが紹介され、来場客は日本の高い技術力を目の当たりにした。
「地球に優しい技術と進歩」がテーマの第16回(2013年)では、ブラジル出身歌手マルシアも日本から参加し「ただいま!」と元気な歌声を響かせた。
第17回(2014年)は「三方良し」。来場者、スポンサーや出展者、県人会やボランティアにとって良い祭であれと願いを込めた通り、日系人、ブラジル人関係なく祭りを盛大に楽しんだ。
日伯修好120周年を迎えた第18回目(2015年)はズバリ「日伯120年の絆」。日本政府館が初参加、農林水産省の和食ワークショップが大人気に。
そして記憶に新しい昨年第19回(2016年)は「スポーツと健康」。リオ五輪を控え、例年より早い目の7月初旬に開催。武道のデモンストレーションが行われたほか、東京五輪委員会が出展するなど話題を呼んだ。
「観光にもっと力を注ぐべき」=日本祭り創始者に聞く=祭り通し子孫にルーツ意識を
「第1回郷土食郷土芸能祭」を企画したのは網野弥太郎第8代県連会長だ。始めた動機やこれからの日本祭りへの期待を聞いた。
「第1回郷土食郷土芸能祭」は日本の「食・芸能・観光」を三本の柱として、日系人だけでなくブラジルに対する日本文化の普及を目指したものだ。
また、当時の県連内で問題になった「一世は一世、二世は二世としか交流をせず、団体内の結束が失われつつあること」「移住者数が少なく弱化する移民少県などの世代交代問題」を、大イベントを一緒に実施する中で、県人会内部と同時に県人会同士の結束を強めることを目指したという。
「まずは県連の結束を目指した」と網野さん。全伯の日系コロニアを代表する祭りに成長する過程においては、祭の失敗を心配した多くの県人会会長からの反発を買った時期もあった。
「赤字とかは誰でも気になること。しかし、今県連として県人会がまとまらなければ移民少県はなくなってしまうという危機感があった」と当時の心境を明かした。
初回の開催まで、県連役員が準備のために走り回り、サンパウロ市役所や政府関係者などと会議を重ね、やっと開催決定にこぎつけた。
いざ開催してみると連日の来場客数は予想以上。「これは本当に驚いた。収入はトントンだったけどね」と当時を思い出し笑顔を見せた。
同祭りの三本柱のうち「食と芸能」の披露、普及の成功を実感したと網野さん。「食はあと少し。ここのレストランにないような郷土料理を紹介出来れば良いと思う。あと一つ、観光はまだ出来ていない」と悔しがった。
「日本には四季があり、多くの素晴らしい観光地がある。母県に協力してもらって各県人会が自分の県に来場客を惹き込むような活動。あと一本なんだ」と語り、「これが日本祭りのマンネリ化を脱する一つの手にもなると思う」と力説した。
物産や観光地の紹介など、県の協力を得て日本祭り自体を「小さな観光地」にする――2020年の東京五輪に向けて母県との協力関係も強化される。
網野さんは「日本祭りが『日本への入り口』になるべき。おらが県にどうぞお越しください、と各県人会が切磋琢磨すればさらに良い祭りになる」と微笑んだ。
日系の若者の祭り参加については、「彼らの祖先を感じるものを作るべき。誰でも参加できる盆踊り会場を作るとか、簡単な入り口でいい。祭りの結果を二国間関係に繋げること。道はあるはず」と前向きに語った。
さらに「一世最後の仕事は、子孫に『ルーツが日本国であるという誇り』を感じさせること、そして日伯関係のさらなる強化だ」と断言した。