二人とも反対はせず、言葉が少なかった。母は、私の見送りのため、バスの停留所までついて来た。あの赤い土埃を巻き上げる田舎道で待っていると、バスはやがてやって来た。私は、バスに乗り込んで、発車し始めると、後の席に移動した。手を振るためである。
ところが、あの痩せた小さな母は、道の真ん中にしゃがみ込むと、うつむいた。何となく草をむしっている。バスが曲がり角に来ても、母はとうとう見えなくなるまで顔を上げなかった……結局、それが、母を見た最後の姿だとは、思ってもみなかった。
二十五年ぶりである。
羽田空港に降り立つ前に、機内で一枚の用紙を貰っていた。見ると何か一般的でない専門的用語が並んでいる。何を書き込んで、どこへ提出するのか、さっぱり分からない。重要そうでもある。港内の職員らしい若い男を呼び止めた。
「あの、これはどうすればいいのでしょうか」
と尋ねた。彼は用紙を受け取り、一瞥すると、
「日本語で書いてあります!」
と私へ用紙を突き返して、行ってしまった……「恐ろしい……」
これが故郷の土を踏んで、最初に言葉を交わした日本人であった……その用紙は思い切って捨てた。いま考えると、どこからどんな乗り物に乗って行くのか、まるで分からない。その私が、何とか九州の福岡に着いたのだ。日本語だらけのこの国より、片言でブラジル中を旅行するほうが楽だと思った。
友行が出迎えてくれた。彼には特別な感情は湧かないが「ほっ!」と出来た。
私は詳しいことを何も知らずにやって来たが、友行は、奥さんと復縁せずに、一人で暮らしていた。だからといって、心情的なものが、解決したわけではない。私の心の中は、あの時以来、整理されたままになっている。それなのに、たとえほんの少しの間でも、生きるためとはいえ「彼に頼っている自分!……こんな筋の通らない自分」に、経験したことのない、情けなさを感じた。そして何より友行に申し訳ないと、心底思った。
一方、友行の振る舞いも、私に対して少し醒めている……が、根が優しい男である。彼はまず自分の実家へ、私を連れて行った。いきなり実家へなど行く気もなかった。ただこちらへ来て、私の身辺が落ち着くまでの世話を頼みたかっただけだった。友行の実家は、寺だと聞いてはいたが、当然そこへ足を踏み入れるのは、始めてである。
寺の入口を入ると、右手は大きな建物で、この寺の家族はこの中の一角で生活をしている。左手には別棟があって、その中には仏像が並んでいる。信者たちは、ここへの出入りは自由らしく、お賽銭を上げて、手を合わせている。この大小、二棟の前は、広々した庭園で一応、木や花も植えられ、手入れされているのが分かる。その庭の終わるあたりに、もう一棟ある。母屋と並行に向かい合って御堂が建っている。ここはしんとして、何か威厳を持った仏像が座っている。
更に、その横手には、小さな裏門があり、そうとう古い仏像が三体、外気にさらされて立っている。仁王のような仏像で、木彫りの牛ほどもある大きなものである。長い年月で出来た、木目のひびの一つ一つに、長い長い歴史の香りがしてきて、重みのようなものが感じられた。私はこの寺の中の仏像たちでは、この三体に一番惹かれるものがあった。友行の説明では、彼のひいお祖父さんが「この寺を乗っ取った」という伝説があるらしい―