サンパウロ市の誕生日、1月25日を心からお祝いしたい。1553年のこの日、マヌエル・ダ・ノブレガ宣教師が率いるイエズス会士ら一行が、チビリサー族らインディオ教化のため、初めてのミサをサンパウロ市で行った。その場所がパチオ・ド・コレジオであり、チビリサー族らが住んでいたのが、現在のリベルダーデ周辺だ。マヌエル・ダ・ノブレガは巨大な銅像となって今もセー広場に立っている▼1月25日はサンパウロ市の誕生日だけでなく、多くの日系人子弟を育ててくれたサンパウロ州総合大学(USP)の創立記念日でもある。1934年のことだ。歴史に詳しい人はピンとくるだろう。護憲革命の2年後であり、「革命の産物」といえる存在だった。1930年にクーデターで政権についたヴァルガス暫定政権(ヴァルガス革命)が憲法を停止したことに対し、パウリスタ(サンパウロ州人)が「憲法を守れ」と主張して反旗を翻したのが「護憲革命」(1932年)だ▼コーヒー貴族全盛期のサンパウロ州は、政治家と軍人が手を組んで反ヴァルガスを旗印に、リオに向かって進軍したが他州が追随しなかった。サンパウロ州勢は孤立して、手痛い敗北を喫した。死者数は2千人を超すというブラジル史上最大規模の内乱となった▼ヴァルガス暫定大統領は、腹心をインテルベントール(執政官)として各州に派遣して統治させていたが、翌1933年8月からサンパウロ州にはサンパウロ州人を派遣することにした。それがアルマンド・デ・サーレス・オリベイラ執政官であり、彼が中心となってUSPを創立した。当時、サンパウロ州を代表する知識人の一人、セルジオ・ミリエは《サンパウロから二度と市民戦争は起きないが、ブラジル社会の経済思想を変革する、科学的もしくは知的な革命は起きる》とその目的を記している▼つまり「武力でなく、文化と科学でブラジルに革命を起こす人材を育成する」ことを目的に大学を作った。当時の教育関係者、企業家らが力を合わせて、人文科学系はフランスから、理系はドイツから名だたる学者を招へいして学術レベルを一気に引き上げた▼USPからは数多くの大統領、大臣、政治家、官僚を輩出したことは、みなが知るところだ。それをもって、パウリスタの歴史家は良く「最終的には護憲戦争に勝った」と言うのを聞く。確かにそうだ▼先日、勝ち負け抗争に関する調べごとしていて、臣道連盟裁判の弁護士の一人が書いた『O Processo da Shindo Remmei e demais associações secretas japonesas no Brasil』(1960年、エルクラーノ・ネーヴェス)の前書きを読んでいて、ハッとした。サンパウロ州司法裁判所のジュリオ・イナシオ・ボンフィン・ポンテス裁判官が書いた、次の裁判文書が引用されていたからだ▼《敗戦を信じなかった日本人たちの態度は、社会学的には珍しいものでも、異例なものでもない。ナチスに蹂躙されたフランス人も敗戦を信じず、最終的に戦勝国になった。1918年のドイツ国民も、敗戦を受け入れなかったからその後の展開があった。米国においてもリンカーン率いる北軍が勝ったことを受け入れない南部人が秘密結社を作った。かくいう我々自身だって1932年のことをどう思っているのか。サンパウロは勝ったか?》▼「負ける」ことをどう受け入れるか、そこからが「本当の勝負」なのだと考え込まされた。そして、それがサンパウロの歴史――ある意味、日本の戦後にも共通した部分があるかもしれない、と思い至った。(深)