高良忠清さん(82、沖縄県那覇市)の自分史「戦争と移民」を、本日から掲載する。本来は家族や子孫向けに書かれたものだが、沖縄県人の戦後移民の一つの典型として興味深い内容であり、本人からの許可をえて転載することになった。
高良さんは1935年1月に那覇市字小禄に七男として生まれた。長男から三男までは、1936年にブラジル移住しており、戦後、彼らを頼って呼び寄せてもらった。
那覇市小禄は、那覇港、那覇空港、海軍司令部壕に囲まれた交通の要衝だったため、沖縄戦の時にはまっさきに艦砲射撃の標的にされた激戦地だ。
《昭和十九年(一九四四年)十月十日、朝七時頃、第一回目の大空襲が始まると空いっぱいに飛んできた敵の艦載機であたりが薄暗くなるほどだった》という描写から始まり、逃避行の最中には米軍機の機銃掃射を受け、《住民も兵隊達も皆、壁に身を貼り付けて立っていたが、私の側にいた少年の腹に弾が当たるとその内臓を全部外に出してばたっと倒れた》という戦場を生きのびた。
1955年に家族で渡伯。最初は農業、のちに出聖して建材店を経営するまでになった。ブラジルの字小禄・田原字人会の会長を務めるまでになり、現在では「人生の腰休(クシユクイ)」を過ごしている。これは「腰休め」の意味で、一年の収穫を終え、喜びながら、一日を踊って過ごす習慣のこと。