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自分史 戦争と移民=高良忠清=(8)

 それで軍医が診察に来て、すぐに注射をしてくれたし、おかゆも用意してくれた。それから次第に破傷風も良くなっていき、口も開けるようになってご飯も食べられるようになりました。
 私はそこに入院して以来、便をしたいとも思わなかったし、したことも覚えていなかったが、自由に歩けるようになってからやっと便所に行きたくなった。ほんとうにあの叔父さんのおかげで元気になることが出来、私は深く感謝しています。
 その病院に連れてこられてから数日後には同字人、近所の人、親戚の人達が自分の親戚や知人は居ないかと探しにやって来た。その人達とあっていろいろ話をすることが出来た。
 ある日、看護婦さんが父を移動させると言うので、自分も一緒に連れて行ってくれるように頼んだが父一人だけを連れて行った。父の容態が悪くなったからだと思い、父をどこに運ぶのか行き先を確かめていると、そこから見える別のテントに入っていった。

父の死

 それから何日かすると叔母さんが面会に来て、父の様子を尋ねた。父は向こうに見えるテントに連れて行かれたと話すと、叔母さんはそっちに足を運んだが、父は見当たらず戻ってきた。父はすでに他界していたのです。
 叔母さんがその日面会に来たのは、朝ご飯の仕度をしていると、夢か、幻か、父の「俺はもうだめだっ」と言う声を聞いたので、急いで駆けつけたそうだ。それが父の義理の妹への最期の言葉となって、叔母さんにはテレパチア(以心伝心)で伝わったのでしょう。
 私がこの病院に来た時、隣の寝台の下に一欠けらのニンニクが落ちているのを見ていました。母はいつも口癖のように「ニンニクは風邪や破傷風に良く効く薬だと」言っていたので、なんとかそのニンニクを手に取って食べたかったが、それが出来なかった。
 次第に病気も回復し、起きて座れるようになり日増しに元気になった。もう寝台から降りて一歩一歩歩けるようになった時、そのニンニクを拾って食べた。この野戦病院は、畑の上に建てられていたので地面の土にこのニンニクは残されていたのだ。
終戦

 私の病気も回復し、自由に歩けるようになった頃、素晴らしいニュースが飛んできた。
 日本は敗戦、そして一九四五年八月十五日、終戦となった。それを聞いた看護婦さんたちやアメリカ兵たちも非常に喜んだ。自分も子供ながら「もう安心してよい」と思って、とても嬉しかった。

兄との再会

 数日後、同字人から弟が久志の野戦病院に居ると聞かされた兄が会いに来た。そして三週間ほど入院している間に、ある日、兄がお肉を持ってきて、鍋も無いので空き缶で炊いてくれた。そんな美味しいお肉は食べたことも無かった。栄養満点で、その夜はお腹が張ってしまった。
 後で兄の話によれば、あの肉はアメリカ兵の残飯から貰って来たそうだ。かなり元気になって足の傷も小さくなったので、看護婦さんは退院してもよろしいといって大きなアメリカ兵の軍服をくれた。