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自分史 戦争と移民=高良忠清=(9)

 「これを着て退院しなさい」と言われた時は皆大笑いとなった。何しろその軍服は、小柄な私が二人はいってもまだ大き過ぎるぐらいだった。兄が「それは俺が着るから、おまえは俺のものを着なさい」と言ったので、結局、私は兄の服を着て退院した。
 そこで、君達は未成年だから孤児院を探すようにと言われたが、兄は俺たち孤児院には行きません、自分たちの部落に行きますと言って久志に戻った。
 久志で初めてお米の配給、一人当たりコップ二杯を貰ったが、問題はそのお米をどうやって炊けばよいのかでした。あの当時、ほとんどの人達は食器も鍋も持ち合わせず、缶詰の空き缶を食器や鍋にして使っていた。
 そこで三つの指先で二回掴んで空き缶に入れ、お椀二杯の水をたしてお粥をつくって食べました。
 海には小さな貝がいくら獲っても無くならないほど沢山あって、みんなはそれで出汁をとっていた。近くに同字人の屋号は新朝食(ミアサギ)の照屋光幸栄君、当時十二歳の少年がお母さんと一緒に住んでいた。お母さんは避難していた防空壕の中に爆雷を投げ込まれ大焼けどしたが、今はもうすっかり良くなったらしい。
 食料不足に我慢できなくなった兄が、俺は食べ物の在り処を知っている、と言って食料探しに出かけようとして、その照屋君に、あなた達の分まで持ってこられないし、あんたももう一人前だ、一緒に行こう、と照屋君を連れて行った。
 二日後に二人はたくさんの食料を持ってきた。ある日、日本兵がその食料を売ってくれないかとやって来たが、あんな時にお金を持っていても何の値打ちもなく断った。
 ところが夜中に食料を盗まれた。そこで、それからは食料を寝台代わりにして寝ることにした。兄は近所の他の青年達も連れて食料探しを繰り返していた。
 ある夕方、その仲間で那覇出身の青年のお姉さんと一緒に彼等を迎えに行こうということになった。ところが部落の出入り口には巡査が立っており、私達は止められた。それでもその巡査はお姉さんの知り合いだったので、訳を話し通してもらうことが出来た。その先まで皆を迎えに行って、帰りにはその巡査にタマゴ三個で御礼をして村に帰った。
 私の足の傷は毎日、村の診療所で治療したおかげで立派に治った。終戦直後、多くの村が立ち入り禁止区域になっていて住民は自由に自分の村に帰ることは出来なかった。
 そんなことから、名前は忘れたが、ある村の移民の子孫だったアメリカ人二世が政府と交渉して久志の部落から二キロ米余り離れた所に山を切り開いて、その村の宇人達を一緒に住ませた。そんな立派なアメリカ二世が居りました。
 そうかと思えば、その頃、私の親戚の人達が三人揃って食料探しに禁止区域を歩いていると日本語を話す二世がジープでやって来て、みんなの行き先を訊いてから自分が連れて行くと車に乗せられたが、結局、警察に連行され留置所に入れられた。もしもその二世が日系二世だとすると、沖縄人にかなり大きな憎しみを抱いていたと思われる。

母を訪ねて

 宜野座(ギノザ)に住んでいた叔母から、ハッキリした住所は分からないが、私達の母は石川に居ると知らされた。