軍の講習をうけて、桟橋内で働く免許書を取り、船の荷物を上げ下ろしする仕事をすることになった。一生懸命働いて三千円の月給を貰い、全部母に渡した。それを頼りにしていた母はいつも喜んでくれた。
あの頃、若者達の憧れは運転手だった。アメリカ軍の基地の中で、たくさんの仕事があって給料もよかったからだ。
昭和二十七年(一九五二年)に定時制高校が設立、入学試験に合格したので勉強を始めたが、職場と学校の両立は易しいことではなかった。
一時間目の授業から四、五分もすると昼間の仕事の疲れで眠気に襲われた。それでも先生は何も言わなかった。家で勉強をする暇も無く、勉強と仕事を両立出来ず、結局学校を辞めてしまった。
十八歳になってから自動車の運転免許を取得してタクシーを運転していたが、クリーニング屋の配達をやることになった。ある日、私の家の近くで故障した洗濯屋の車を直している運転手がいた。彼は修繕が終わると一リッターほどのガソリンでジャブジャブ自分の手を洗って車で立ち去った。
ほんの少しで手はきれいに出来るところを、他人のものだから無駄遣もお構いなしなのだろうと思いながら見ていたが、しばらくするとその運転手が仕事を辞めたので、私が代わりに雇われることになった。
この洗濯屋というのがじつは、小禄尋常小学校に一緒に入学、中学も同じ上原長栄君もこの店の経営者の一人だったのだ。上原長栄、照屋幸一、上原小太郎、それにもう一人の上原さんと四人組合で開業したのだ。
そんな事から一緒に勉強して、こんどは一緒に働くことになった長栄君と、よくアメリカ軍の兵舎に洗濯物を届けに行ったものです。
しかし、この洗濯屋も経営がおもわしくなくなり、四人の組合では人が多すぎると言うことで長栄君はこの組合から抜けることにした。
ある日、彼は照屋幸一さんを連れ添って仕事の清算をしにやって来たが、残った社長も払うお金が無く、彼は一銭も貰わず帰るしかなかった。
長栄君が「それじゃあチョとだけ車を使わしてほしい」と頼んだが、それも断られた。金も払わぬ車も貸さないでは、人の情けも無い人だと私は思った。後にブラジルでこの上原長栄君が來伯することを耳にして、まるで恋人でも待つように胸を躍らせた。再会の当日は仕事も休んで、まだ自家用車も持たない身分、トラックを走らせて彼に会いに行った。
本当に久しぶりに会えた長栄君と一緒にいた時間は、なつかしさいっぱいで、沖縄に居る様な気がした。長栄君は私にとってそんな竹馬の友だったのだ。上原小太郎さんは洗濯屋開業の際に照屋幸栄さんからお金を借りていた。
ところがある日、幸栄さんがブラジルに移住するとの話をきいて出発前夜に駆けつけた。プレゼントを携えて、義理ある幸栄さんにせめてお別れの言葉でもと思って彼の家をたずねたのだ。
ところが声をかけても幸栄さんが見えないので、尋ねてみると、幸栄さん昨日ブラジルへ発ったということだった。日にちを間違え一日遅れで挨拶に出向いた小太郎さんは驚いて、恥ずかしさと自分のふがいなさで穴があったら隠れたいほどだったと語っていた。
そんなことから、ブラジルで沖縄人の移民を受け入れていると言う話を聞いた。急激な人口増加にくわえて、沖縄にはあまり将来性をもてなかったので、御先祖様が残してくださった財産を処分して旅費をつくり、すでに向こうで生活していた三人の兄達の呼び寄せ移民としてブラジルへ渡ることにした。
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