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ジェリー・アドリアーニ死去=長く愛され続けた60年代のロック・アイドル

在りし日のジェリー・アドリアーニ(Reprodução TV Brasil)

在りし日のジェリー・アドリアーニ(Reprodução TV Brasil)

 60年代に、「ロックを歌うアイドル」のブームの一翼を担った歌手の一人、ジェリー・アドリアーニが23日、癌のため、入院中だったリオ市内の病院で死去した。70歳だった。

 ジェリーの本名はジャイール・アウヴェス・デ・ソウザで、1947年1月にサンパウロ市ブラス区で生まれた。ジェリーという芸名は、1964年に歌手デビューした際、最初に出したLP「イタリアニッシモ」に収録した曲などがイタリアのカンツォーネ風だったことに由来し、イタリア風の名前が選ばれたという。彼は1965年、「ウン・グランデ・アモール」のヒットで一躍人気者となる。

 60年代のブラジルは、レコルデ局の歌番組「ジョーヴェム・グアルダ」が超人気で、ビートルズやローリング・ストーンズのようなロックがアイドル歌手によって歌われてヒットした。現在もなおカリスマ的な人気を誇るロベルト・カルロスを始め、エラズモ・カルロスやヴァンデルレアなど、そこで人気を博した歌手がやがて、国民的な人気を得ていった。

 ジェリーもその時代の歌手だが、実は「ジョーヴェム・グアルダ」には出ていない。それは彼がライバル局エセウシオールの対抗番組「エセウシオール・ア・ゴーゴー」や、トゥピ局の「ア・グランデ・パラーダ」の司会を務めていたためだ。いわばひとりで「ジョーヴェム・グアルダ」に対抗し、「ケム・ノン・ケレール」「エス・メウ・アモール」といった曲をヒットさせていた。

 ジェリーには新人発掘の才能もあった。そのひとつが、70年代に活躍したブラジル最大のロック歌手、ハウル・セイシャスだ。ジェリーは60年代後半、まだ「ハウルジート&パンテラス」という名前で地元バイア州で活動していたハウルに目をつけ、彼のレコード契約への斡旋やレコーディングを手伝った。パンテラス名義では大きな成功はしなかったが、ハウルは解散後にソロ・デビューし、ブラジル国内を一世を風靡している。

 その後は世間一般のスポットライトからは外れる日々が続いたが、ジェリーは歌手活動を続け、90年代に、見事なカムバックを遂げた。

 その原因の一つは、1990年に彼にとって最大のアイドルであるエルヴィス・プレスリーに捧げたカバー・アルバム、「エルヴィス・ヴィヴェ」が大ヒットを記録したこと。もうひとつは1999年、ブラジルが生んだ最大のロックバンド、レジオン・ウルバーナのカバー・アルバム「フォルサ・センプレ」をヒットさせたことだ。

 当時、既に50代を迎えていたジェリーだが、よく通る切れ味鋭い声は健在で、好評を得た。特に後者は、20万枚のヒットを記録した。

 その後もジェリーは積極的にステージに立ち、元気な歌声でロックを聴かせ、2014年にはデビュー50年記念の全国ツアーも行ったが、2017年4月10日に癌が発見され、リオ市のヴィトリア病院に入院、加療していたが、23日に亡くなった。彼の遺体は、カジュー市のサンフランシスコ・シャビエル墓地に埋葬された。(23日付G1サイトなどより)