3月19日、PVのホテルで朝食中、一行の斎藤修三さん(77、兵庫県)=サンパウロ州オズワルド・クルス在住=と一緒になった。21歳の時、力行会を通して1961年に渡伯した。その3年前に兄・益幸さんがすでに来ていた。
最初はパラナ州ロンドリーナ市のロレーナ植民地に入植し、アプカラナ農学校で寄宿しながら2年ほど勉強し、バストスで養鶏関係の販売業務を始め、オズワルド・クルスへ移り、いまも現役で仕事を続ける。
「トレゼ・デ・セテンブロ移住地を見て、アリアンサを思い出したね。村は続いているが、産業は廃れてしまった。子供の教育を考えたら、みな町に出てしまう。ここの場合、町といってもマナウスまで船で3日間だから遠いよね」。
聞けば、斎藤さんも満州生まれだという。
「父は県の農業指導者。家族を連れて、満州の張家口市の農業試験場に赴任していた1940年にボクは生まれた。でも2歳と8カ月で父が死に、母と兄弟で爺さんの所に帰って来た。だから父の顔は憶えていない。終戦までいたら、危なかったかもしれないね」。
戦後移民の特徴の一つは、満州出身者が多いことだと改めて認識した。大陸生まれが内地に戻っても農地はなく、元々大陸で暮らしていただけに、日本を離れることに未練が少ない。
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午前中に一行は、同移住地の門脇家敷地に昨年10月にできたばかりの軽食レストラン「Cafe do Bachan」を訪ねた。
「バッチャンは誰のことですか?」と尋ねると、門脇マルガリーダさん(62、二世)のことだった。田辺さんの妹だ。「去年の10月にオープンしたばかりよ。キレイでしょ。お猿、蛇、イノシシがおるのよ。自然がいっぱい」と笑う。
夫の門脇道雄さん(68、山形県)は、「トレゼ・デ・セテンブロ文化協会」というコロニア自治会の会長をしている。「会員に一世はほとんどいない。二、三世が中心で30人ぐらい。コロニアに住んでいるのは3家族だけ。営農しているのも2、3家族」とのこと。
門脇さんは「64年間、入植以来、ずっと同じ場所に住んでいる。一度もここから動いたことがない」と胸を張る。実際、凄いことだ。
「バッチャン」の庭には「グァポレ移民の碑」が立っていた。なんと2008年6月に日本移民百周年と同移住地入植54年を記念して建立された。入植者全員の名前が、日ポ両語で刻まれた立派なものだ。
その最後には、次の短歌が彫られていた。
《忘れ得ぬ開拓の友ありトレーゼは ゴムの花咲く心のふるさと》
(つづく、深沢正雪記者)