やはり国道開通で、町の産業構造が根本的に変わった。クイアバまで自家用車で2日間(バスで24時間)、そこからサンパウロ市までバスで16時間。急げば3日以内に行き来できるようになった。
だが、門脇道雄さんは単に養鶏を撤退しただけでなく、その状況を逆手にとった。「保冷倉庫を作り、冷凍ブロイラーの仲買いをやり、ネスレ社とヨーグルト製品の販売契約を結んでロンドニア州全体のスーパーに卸すようになった」と見事に変化に対応した。
その事業を息子に任せて、コロニアに落ち着いた。だが「何かしなくては」と、「カフェ・ド・バッチャン」を始めたのが昨年10月だ。
道雄さんの母・敏子さんも「今思えば、日本に帰りたいと言い続けた私を、周りのみんなは受け入れてくれた。ブラジル人からも助けられた。日本には9回行ったわ。でもいつの間にか、ここに戻ってから『ああ、あたしの生活はここにあるんだ』と思うようになった。ここ20年ぐらいかしらね。ブラジルの方が良いと思うようになったのは」としみじみ振りかえった。
敏子さんは「明治神宮秋の大祭献詠歌に入選した」というので、ニッケイ新聞の過去記事を検索したら05年11月9日付にあった。「雨晴れて緑滴るアマゾンの広野に架る虹のさやけし」。苦労や望郷の想いを超越した澄み切った心が感じられる作品だ。
もう一つ、2004年の第1回海外日系文芸祭(海外日系新聞放送協会)でも入選した。「赤き夕日が樹海の中に落ちてゆくこの地に初と知らで移りき」。こちらからは、何も知らないで来た若き日々への悔しさが少し滲んでいる感じがする。
敏子さんは当時、サンパウロ市の短歌結社・椰子樹社の多田邦治さん(72、徳島県)に師事していた。故郷巡り一行に多田さんがいることを知り、敏子さんは「私がサンパウロに会いに行かなきゃいけないに、先生が来てくれた」と喜んだ。
多田さんは「初めてお会いしたが、思った通り、育ちの良さを感じさせる人だった。歌にその人柄が良く出ている。30年ぐらい前から10年前まで、私の歌壇の中心となる投稿者の一人でした。今回この旅行に参加した目的が達成されました。私も感激しました」と喜んだ。
ただし「もう一人、椰子樹にこちらから投稿してくれている栗山平四郎さんが今体調を崩しておられるとかで、お会いできなかったのが残念」とも語った。
参加者の川染正春さん(77、香川県)=サンパウロ州サンロレンソ・ダ・セーラ市=は、「トレーゼ・デ・セテンブロ移住地の話は、すごく心に残った。電気もない、熱帯農業の経験もない29家族が直面した苦労は並大抵ではなかったと、肌身で感じたよ。まったく想像もしなかっただろうね。ああいう場所での日本人墓地は、特に意味深いね」と共感をよせた。(つづく、深沢正雪記者)
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