ホーム | コラム | 特別寄稿 | 《ブラジル》「ベストセラー作家・千葉勇の祖父の地の謎=家伝刻む石碑にあり得ない記述=宮村秀光氏訪日で判明=ブラジル宮城県人会会長中沢宏一

《ブラジル》「ベストセラー作家・千葉勇の祖父の地の謎=家伝刻む石碑にあり得ない記述=宮村秀光氏訪日で判明=ブラジル宮城県人会会長中沢宏一

千葉家の皆さんと例の石碑を囲んで記念撮影する文学アカデミー一行(石碑から左に2人目が宮村会長)

千葉家の皆さんと例の石碑を囲んで記念撮影する文学アカデミー一行(石碑から左に2人目が宮村会長)

 ブラジル日系文学アカデミーの会長でこの度の団長宮村秀光氏とは、日本・ブラジル歴史の勉強調査などで協力し合ってきている仲です。彼が訪日旅行する機会に宮城県石巻市、登米(とめ)市を訪問する計画を依頼され、県人会から宮城県庁、石巻市役所、登米市役所に受け入れを要請しました。
 石巻市では、日本人初南米上陸の石巻若宮丸関係の史跡を巡り、東日本大震災の被害地を視察しました。松島では観光と伊達政宗資料館などを訪れました。
 登米市訪問の目的は、ブラジル日系作家アカデミーの発案者であります千葉勇氏(イサミ、Dr. Içami Tiba)の父・勇喜氏の生地を訪問することでありました。
 千葉勇は説明するまでもなく、40冊に及ぶ著作と80万部のベストセラー「Quem ama educa」の著者であり、数カ国に翻訳されており、ブラジルの教育論者として一人者でありました。
 さて、宮村団長からメールが入り、一行は3月27日に登米市東和町の千葉家を訪れた折のことをしり、驚きました。思いもよらぬ石碑に出会ったというのです。
 それは1689年5月に松尾芭蕉が宿泊した記念の石碑であります。前もって知らされていなかったので団員一同感銘を受けました。建立したのは勇喜の兄仙蔵氏(共にブラジル移民)が訪日の折に建てたもの。

松尾芭蕉像(葛飾北斎画、By Hokusai [Public domain], via Wikimedia Commons)

松尾芭蕉像(葛飾北斎画、By Hokusai [Public domain], via Wikimedia Commons)

 登米は石巻から平泉への道中の中間地点で、「千葉家を宿とした」とのことです。
 そうすると、松尾芭蕉は石巻から北上川の西側を北上し、登米で一泊、次の日に登米から数キロ北上して、北上川を渡って2キロほど程の東和町字大沢長円田の千葉家に着いたことになります。
 そこから平泉へのルートを予想してみる。北上すると岩手県の東磐井郡に入る。(江戸時代は一ノ関、平泉も含めて、岩手県南部は仙台藩でありました)。この地方は私の親戚が多いので、その予想路を記して登米市役所に調査を依頼しました。

▼幕末の千葉周作も一族、文武両道の家系

 千葉家は、父・林乃助、長男・忠見と4人兄弟を含め、14人が1931年から1939年まで3回の移民船で移民しており、石碑を建てたのは次男の仙蔵でした。3男が勇の父勇喜です。
 勇喜は事業に成功しました。勉強家で60歳にて法科大学を卒業し、これから、僧呂を目差し、仏門の修練に訪日する直前の71歳で亡くなりました。
 母きくえは書道の大家で、日本の書道展で入賞するほどの腕でした。松尾芭蕉が宿泊したことを考えると、千葉家は文化的な地方の名家であったことが推察されます。
 千葉一族は伊達政宗公以前に、宮城県東部、岩手県南東部を治めていた葛西氏の臣下で、幕末の千葉周作も其の一族です。
 千葉周作は剣術から剣道への道を開いた師範として有名ですが、勇はブラジル学生柔道選手権で優勝した文武両面で優れた人物でした。仙台藩の登米地方の歴史と風土がブラジルのIçami Tibaを出現させたのではないかと思います。
 登米市役所からの返事を期待に胸をふくらませて待っていたら、「東和町の信頼できる郷土史家から聞いたが千葉家に泊った資料がない」と予期せぬ返事が伝えられました。
 この石碑は1982年に建立されています。地元郷土史家が認めない石碑が35年も立っています。そして市役所の職員がわざわざご案内して下さりました。何故かと分からなくなりました。

▼芭蕉のルートは北上川西側、でも千葉家は東側

おくのほそみちのルート図。5月11日の登米で一泊。この宿泊地は北上川の西岸で、千葉家は東岸に渡って2キロのほどの東和町にある。翌12日には北に33キロ離れた一関で宿泊している史実と合わせると、千葉家に寄ったとは考えづらい。しかも「十泊」であればなおさらだ

おくのほそみちのルート図。5月11日の登米で一泊。この宿泊地は北上川の西岸で、千葉家は東岸に渡って2キロのほどの東和町にある。翌12日には北に33キロ離れた一関で宿泊している史実と合わせると、千葉家に寄ったとは考えづらい。しかも「十泊」であればなおさらだ

 宮村氏が帰伯するまで、自分なりに芭蕉について調べようと取り掛かったら、奥の細道のルートが、芭蕉に同行した河合曾良の日誌を元に宿と日付けが明白に出てきました。
 石巻から北上川の西側に一ノ関街道があって、登米で一泊。次の日は大雨で街道を進むことが出来なく、馬で山越えして一ノ関に着きました。翌日は一ノ関から平泉へ日帰りをし、一ノ関でもう一泊したとあります。
 石巻は5月10日、登米11日、一ノ関12、13日とあり、この歩き方は猛スピードです。とても東和町へ立ち寄れる時間はありません。
 芭蕉は伊賀の出で、芭蕉と曾良は幕府の隠密説があります。特に仙台藩のかの有名な伊達騒動の後ですから、第二の仙台城と言われた瑞巌寺は時間をかけて見聞しています。
 松島を詠んだ「松島や ああ松島や、松島や」の句は芭蕉の句ではないようで、仙台藩での句は平泉においてだけで、ほとんどありません。仙台藩での芭蕉の役目は隠密であったと言われています。
 2週間ほどして、アカデミーの一行が帰伯しました。すぐに宮村団長が来館し、石巻、登米、を含めて帰国報告を聞きました。
 以下が例の石碑の碑文です
      ◎
芭蕉翁逗留史文
奥の細道の旅 芭蕉翁留の史跡
奥の細道紀行文の一節に「心ほそき 長沼にそふて 戸伊麻という所に日一宿して 翌日 元禄二年五月十四日 私の先祖の千葉泰道(元禄四年没)の家に宿泊して 草の戸 住え替える世ぞ雛の家 芭蕉 といふ句を読まれた。其の当時の家屋は昭和五十二年まで、ここに現存していた。家伝によると、芭蕉翁は十日ほど逗留され、一族あげて北上の渡しまで爺を見送ったという。

 ブラジル在住石巻市井内
昭和五十七年六月一日 千葉仙蔵建立 佐々文石材点刻 

 千葉家に10日間も芭蕉の名を語り逗留したのは誰だっただろうか。芭蕉は当時、全国的に弟子を持つほど有名だったので、弟子の一人が芭蕉に成り済ました「ニセの芭蕉」であったようです。
 ニセとは言え、それなりの俳人としての力量はあったでしょうし、受け入れた千葉家は文人が宿として選ぶような、文化と経済力を持った一族であったことは確かと思います。
 さて、我々関係者としては、千葉仙蔵氏の子孫の方々と話し合い、これからの取り扱いを決めていきます。ですが、3世紀の間千葉家に伝えられた事とは言え「奥の細道」の史実にはない碑文の内容ですので、市役所との合意の元に撤去する方で進言をしたいと思います。
 それにしても、仙蔵氏の立場に立つと、1931年(昭和6年)、長男夫婦と姉とで18歳で移民しています。渡伯50年、68歳で石碑を建立していますから、父を含めて一家14名移民してIçami Tibaを排出するような繁栄をしておるブラジル千葉家に代々伝わってきた芭蕉逗留のことを千葉家敷地内に残したい。それが石碑建立の意図であったと察します。
 東和町出身の先輩に芭蕉の事を尋ねると「芭蕉逗留の話は聞いておりました」と。この地方では一般に伝えられてきたようです。
 しかしながら、芭蕉の史実にない内容の石碑をこのまま放置しておくわけにはゆきません。
 宮城県人会としては関係者と検討し合い、登米市役所、及び関係者との合意とご協力の元に解決していきたいと思います。
 ブラジル日系作家アカデミーのご一行が千葉家を訪問して下さり、石碑の存在を知ることが出来ました。これも、Içami Tibaの天界からの計らいかもしれません。
 そして、ブラジル日系社会の大切な遺産処理の一つとの判断で、お互いを尊重し合い、おせっかいながら県人会の役割を果たしたいと思います。