昨今、大揺れのブラジル政界だが、そんな最中、ある政治家の生誕100周年を記念した伝記本が発表され、話題となっている。
その政治家とは、テオトニオ・ヴィレーラ氏(1917―83年)。本の題は「セニョール・レプブリカ(ミスター共和国)」という。
役職上は1967~82年に上院議員をつとめたことが知られる程度だから、名目上の肩書きではヴィレーラ氏のことはわかりにくい。だが、ブラジルの民主化を考えるときの同氏は、タンクレード・ネーヴェス氏(民生復帰後の最初の間接選挙で大統領に選ばれたが、執念前夜に倒れて死去)やウリセス・マガリャンエス氏(軍政時代の野党側リーダーで、1988年の新共和国連邦の制定に尽力)と並んで尊敬されている人物だ。
ヴィレーラ氏は1950年代に北東部アラゴアス州の州議員となり、政治家としてのキャリアをはじめている。当時の所属政党は、第2党で保守系の全国民主連合(UDN)だった。同氏はこの頃から正義感溢れる政治家として知られ、政治腐敗を理由に、同州知事だったセバスチアン・マリーニョ・ムニョス・ファルコン氏の罷免運動を率いていた程だった。1961年には同州の副知事にもなった。
1964年の軍政発足当時はUDNが中心となった軍部支持派の国家革新同盟(ARENA)に参加し、そこでアラゴアス州選出の上院議員となる。軍政下の政党は、ARENAと野党の民主運動(MDB)の二党のみだった。
だが1974年、時のエルネスト・ガイゼル大統領と政治の解放路線を巡って会談した際に意見が決裂したのをきっかけに、ヴィレーラ氏は民主化運動に走ることとなる。議会の中では積極的に民主化のための法案を提出し、「プロジェト(プロジェクト)・ブラジル」と呼ばれるようにもなる。
そして、1979年4月にはARENAを離党し、MDBに正式に移籍。翌80年に政党結党の自由が認められ、多党制の時代になると、MDBが母体となった民主運動党(PMDB)を共に立ち上げ、主要政治家のひとりとなった。
ただ、1982年に癌に侵されていることが判明し、ヴィレーラ氏は議員引退を表明。翌83年11月、同氏は帰らぬ人となった。
だが、このヴィレーラ氏が亡くなる前後から、国民の間で民政復帰を求める声が強まった。それを受けて、84年に起きたのが、国民による大統領直接選挙を求める「ジレッタス・ジャー」運動だ。この運動の際、当時の人気歌手で現在でも大御所的存在のミルトン・ナシメントがヴィレーラ氏にオマージュを捧げ手作った「メネストレル・デ・アラゴアス」は、ジレッタス・ジャー運動のテーマ曲のひとつとして愛された。
結局、84年の時点では直接選挙による大統領選への法改正はかなわなかったが、85年1月の間接大統領選でPMDBのタンクレード氏が勝利したことで、軍事政権は幕を下ろすことになった。
その後、息子のヴィレーラ・フィーリョ氏もPMDBから派生した民主社会党(PSDB)の政治家となり、2007~14年の2期にわたってアラゴアス州知事となっている。
昨今は、PMDBからの久々の大統領となったミシェル・テメル氏が不人気で、現在もスキャンダルの渦中にある状態だが、奇しくもそのタイミングで同党の尊敬された政治家の伝記が出ることとなった。