プラント・ハンター
その「産業」に育ったのが、紅茶である。これについては入植者の奈良県人、岡本寅蔵の名が伝説化している。
日本で製茶職人であった岡本は、1920年代、緑茶の生産を志した。が、種子すら持っていなかった。その内、サンパウロのある庭園に、支那茶が観賞用に植えられていることを知った。
しかし旅費がなかった。貧窮のどん底にあったのである。半年かけて、それをつくって出聖、植民地の上部機関、海興(サンパウロ支店)を訪れた。庭園側に対する種子採取の交渉の通訳を頼もうとしたのだ。
が、受付で「明日来い」式の冷たいあしらいを3日続けて受け、宿に帰って無念の涙をのんでいると、同宿者の一人が声をかけてくれた。事情を話すと、偶然にも、これが海興の通訳で、その庭園に同行、交渉してくれた。
岡本は種子を採取、レジストロに持ち帰り、何年もかけて苗木を増やした。
そして、やっと緑茶の販売を始めたのが1929年である。が、消費は邦人社会に限られ、量も少なかったため、紅茶に主力を移し、《シャー・リベイラ》という商標で売り出した。以後も苦心が続いた。
その苦心談の中で、最もドラマチックに語り継れているのが、当時の英国領セイロンからのアッサム種の茶の木の種子の──厳禁されていた──持出しである。
「アッサム」とは、インドの国内にある平原の名で、そこで1820年代、野生の茶の木が発見された。これを支那茶と交配させてつくったのがアッサム種である。
後にセイロンやジャワに移植され、その葉で生産した紅茶は国際的に一級品と評価される様になった。特にセイロン産がそうであった。
筆者は、その持出しに関する二、三の資料に目を通したが、内容が違っている。従って、転記することは避けるが、1934年、岡本が日本へ一時帰国し、ブラジルへ戻る途中、セイロンで密かに種子を入手、税関の目を掠めて船内へ持ち込んだ──ことは確かであろう。(日本から連れて来た親族が一緒だったという)
もしバレれば、逮捕・投獄‥‥となった筈である。ところが、やってのけ、レジストロに戻った後は人に話し、聞いた方は感嘆していた。戦後、公的機関が、この国の紅茶産業の開祖として、岡本を表彰したこともある。(なお、ブラジルで紅茶が産業化したのは、レジストロのみ)
さて、右の事実をどう解釈するか──長く筆者の疑問であった。そこで、農大出身で、こういうことに詳しい麻生悌三氏に問い合わせてみた。
氏によると、それはプラント・ハントであり、当時は世界的に盛んだった──という。
以下は資料類からの引用だが、プラント・ハントとは、外国から貴重な植物の種子や芽、苗を密かに持ち出す行為で、それを職業とした人間もいて、プラント・ハンターと呼ばれた。17世紀から20世紀中頃にかけてのことである。
ハンターは、ハントされる国にとっては、大泥棒であり許しがたい犯罪者であった。が、持ち込まれて益を受ける国では冒険家、英雄扱いされていた。
英国などは国家そのものが、彼らを使っていた。王立の植物園があって、ここが1876年、ヘンリー・ウイッカムというハンターに、アマゾンからゴムの木の種子を大量に持ち出させた。
その一部が芽をふき、アジアの英国領で一大産業となった。ウイッカムは、サーの称号を王室から授与されたほどである。が、アマゾンのゴム産業は、そのアジア産に押されて凋落した。
このゴムの種子の一件より30年以上前のことになるが、やはり英国人で、ロバート・フォーチュンというハンターが、1840年代、支那に潜入、茶の木の種子を持ち出した。
これが、前記の様にインド産との交配によってアッサム種となる。フォーチュンは、英国では歴史的人物として記録されている。
そのアッサムの種子を、遥かな後年、岡本寅蔵が再ハントしたわけである。
以下は余談である。──
ブラジルのカフェーも、その最初の種子は、18世紀にベレンから仏領ギアナを訪れた旅行者が密かに入手、持ち帰ったものである。
アマゾンで日本人が産業化したジュッタについても、麻生氏はプラント・ハントの臭いを嗅いでいるようであった。それを聞いて思い出したことがある。
ジュッタは、パリンチンスの上塚司のアマゾニア産業研究所系の一農場で栽培中、2本の優良種が発見されたのが始まり──とされている。
しかし、それ以前に一つの経緯があった。
『ブラジルに於ける日本人発展史』(下巻、139頁)に、その種子はインド産で「在カルカッタ総領事館および三井物産の手を経て、原産地から取寄せたもので、大いなる犠牲が払われ‥‥」と記されている。
「原産地から、どの様にして取り寄せたのか」や「犠牲」の内容には触れていない。が、その触れていない点がおかしい。実際、プラント・ハンターが介在していたのかもしれない。