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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦後編◇ (108)=筆禍事件起こした石川達三=実は『植民』編集部に勤務

ニッケイ新聞 2014年1月22日
石川達三(『最近南米往来記』中公文庫、1981年より)

石川達三(『最近南米往来記』中公文庫、1981年より)

海興が植民希望者を集めるために戦前に発行していた雑誌『植民』編集部に、片岡松枝は編集主任として勤務していた。松枝は1923年に青山女学院卒業後、東洋大学専門部に入学し、与謝野鉄幹・晶子の「日本古典全集」刊行会に入社し、全集編集に携わった。娘の京田によれば、それが経済的に立ち行かなくなり、アマゾン移民を送り出した南米拓殖会社社長、衆院議員の武藤山治氏に紹介されて「植民」編集部に入ったという。

『植民』には1927年から1930年頃まで勤務し、ここで海興技師だった黒瀬泰と知り合う。松枝は広告取りから記事、文芸欄、校正までほとんど一人でやっていたという。ブラジル移民絶頂期で毎年ほぼ1万人以上が渡伯した〃移民の段階世代〃の時代だ。北島文子(第75回)も1932年から35年まで海興嘱託として雑誌『移民地事情』編集員およびポ語翻訳をしたので、松枝はその先輩にあたる。

さらに京田は驚くような情報をもたらした。「父のメモを見ると、母は石川達三氏と『植民』編集部で一緒だったようです。社員4名、石川達三氏は10時出勤、3時退社で勤務していた」という。

石川達三は1930年に移民船「らぷらた丸」に乗って渡伯した。《この旅行の時に私は25歳で、将来作家になりたい希望は持っていたが、まだ何の実績も無く自信もなかった》と『最近南米往来記』(中央公論、1981年)の後書きにある。《当時私は東京芝区のKという経済雑誌に勤めていた~》(同)とあり、なぜか移民向け雑誌であったことを隠している。ただし「K」は海興かもしれない。

30年に24歳だった松枝も、その頃『植民』を辞めた。当時、石川も松枝も狭い編集部の同年代であり、共に駆け出しの立場として共感を育んだだろう。石川はそこでブラジルへの認識を深め、実際に移民船に乗り込む決意を固めた。

一方、松枝は武藤の紹介で1931年から『時事新報社』社会部家庭科編集部に勤務し、日本の女性記者の先駆けとなった。福澤諭吉が1882年に創立した同社は、水野龍や青柳郁太郎らのブラジル滞在記を掲載するなど移住事業を側面から支えてきた縁の深い新聞社だ。

関東大震災以降、同社は財政状態が悪化していたが、武藤は火中の栗を拾うように32年から経営を担当し、財界の不正を暴くスクープを連発して黒字化させた。だが、34年に帝人事件の疑惑報道の直後に暴漢に凶弾を5発浴びて死亡した。

その年に黒瀬が帰国し、35年に結婚し、松枝は年末に出産のため退社した。同年、石川は渡伯体験を描いた小説『蒼氓』で第1回芥川賞を受賞し、社会派小説家として飛躍の一歩を踏み出した。

誰にどんなに聞かれても、母はなぜか戦前の思い出話をしなかったと京田はいう。「戦前は書きたいことを書けない時代でした。父達が結婚する少し前、東大卒で朝日新聞社会部記者だったいとこ達は特高に捕まり、親戚中に恐怖が駆けめぐったようです」。

1937年7月、日中戦争が勃発――。32歳だった石川は中央公論社特派員として南京陥落直後、38年1月に南京入りした。日本軍の実態を描いた問題作と言われるルポ小説「生きている兵隊」を『中央公論』の同年3月号に発表した。検閲により四分の一が伏字削除されていたにも関わらず、掲載誌は即日発売禁止の処分とされた。石川、編集者、発行者は新聞紙法第41条(安寧秩序紊乱)の容疑で起訴され、石川は禁固4か月、執行猶予3年の判決を受け、戦前の日本文学史に残る筆禍事件となった。

そんな時代において、遠く離れた当地は平安な場所だと思われていた。京田は「父は結婚後、再びブラジルに行きたいと希望したのですが、母がジャーナリストであり、国の意にそった記事を書くだけ、まして国外に出ることなど持ってのほかと出国許可が出なかった」と聞いている。

松枝が戦前の経験を娘にすら語らなかった理由には、財界の闇に陽を当てて殺された大恩人の武藤、満州の現実を白日の下に晒そうとした元同僚の石川の件も深く影響を与えただろう。(つづく、深沢正雪記者)