ホーム | 連載 | 2017年 | 『百年の水流』開発前線編 第三部=リベイラ流域を旅する=外山 脩 | 『百年の水流』開発前線編 第三部=リベイラ流域を旅する=外山 脩=(10)

『百年の水流』開発前線編 第三部=リベイラ流域を旅する=外山 脩=(10)

 落ち着けぬ静けさ 

 筆者が、前記のレジストロ植民地をひと回りした時の印象は(静かだ‥‥)であった。この植民地は分割して造られ、1部、2部、3部、4部、5部と名付けられた。1部は市街地化していて、むしろ騒々しかった。
 が、他の部は静かで、奥に行くほどそうであった。農業地帯だから、それは自然であり、また筆者は静けさは好きなのだが、ここでは、落ちつけぬ気分になった。
 静か過ぎたことも、その一因であったろう。車も農機も人も全く見かけなかった。
 建物のすぐ近くを通っても、音も声も感じなかった。もっとも偶然、そういう日時であったのかもしれない。
 しかし、落ちつけぬ気分になったのは、別にもっと大きな理由があった。強盗の横行に関する話を聞いてしまったのである。
 「戦後、最盛期は400家族以上が、ここに住んで居たのですが、今では60家族ていど。それも町に住んで農場に通う人が殆ど。こうなったのは、強盗のため。何処も次々襲われた。警察は全く役に立たなかった」
 と、筆者を案内してくれた人が教えてくれた。窓外に家を見る度に「ここもヤラレタ」「あそこも‥‥」と慨嘆しながら‥‥。
 1980年代以降の、強盗の横行による農業地帯の変貌は、他地方でも変わらない。これも先に記したブラジル経済の大破綻が招いた狂乱現象の一つである。
 為政者のシクジリの後遺症は、何十年経っても消えない。それが、筆者の気分を乱していた。
 強盗の被害は──植民地外も含むが──こんな具合だったという。
 「イグアッペの日本人宅に押し入った賊が、日本刀を奪い、レジストロに来て、日系人の家を次々襲っては、家人の顔や首を、その日本刀でピタピタ叩きながら、これで斬ってやろうか、と‥‥」
 「賊に酷い暴行を受け、殺してくれ!殺せ!と叫んでしまった」
 「家の前方から銃を撃ちながら襲ってきたので、中から反撃したら、家の横にも居て撃ってきた」
 「撃合いをして、なんとか追い払った」                                               
 「3回やられた。前回の時、年老いた母親が負傷した。今度来たら殺してやる」
 このほか「近頃は、事件の話を余り聞かない」という声もあった。農業地帯では、そこに住む人間そのものが激減したのだから、件数も、それに比例したのであろう。
 なお、この植民地で営農を続けている場合は、野菜を作ってフェイラに運んで売っている人が多く、ほかにパルミット・ププーニャの栽培が増えているという。
 かつてマットの中に自生していたパルミットは、乱伐のため絶滅の危惧が強くなり、採取は禁止された。代わりに、このププーニャが畑で育てられる様になったのである。見かけも味も天然のものと変わらない。
 アンツーリオ(紅団扇)の栽培者もいた。これを最初に入れたのは、北海道出身の清水宗二郎という人で、1960年頃、ペトロポリスへ行った時、苗を入手、持ち帰った。
 すでに孫のルーベンスさんの代になっていた。ただ、栽培者は少ないという。
 その一人佐々木悟さんの父親、東助老人は、98才になっても毎日、花の世話のために仕事に出、出られないと不機嫌になるそうで、この話を聞いた時は楽しくなった。
 植民地の4、5部は、再生林が続いていた。かつては広々とした畑だった処である。5部の場合、多い時は70家族以上居ったが、6家族に減っているという。4部も同じ様なものらしい。
 その人家がないかと、アチコチに目をやったが、どこまで行っても周囲は樹林ばかりだった。
 人家は隠れてしまっている感じだった。マットを伐り拓いて造った植民地が、再びマットに戻っている──と思った。