この狭少な農地で主な農産物と云えば、甘蔗(サトウキビ)と甘藷(サツマイモ)で他に大豆や野菜類がある。そのうち換金作物となるのが甘蔗と甘藷である。小さい島の小規模の農業だから、極く集約的農業で収穫量も微々たるものである。
最近では花卉の栽培が盛んになり、本土に花のない時期を目当てに出荷する対策が講じられているようである。
幼少の頃から父母の手伝いをしながら農業に馴染んできたのは甘蔗(サトウキビ)と甘藷(サツマイモ)である。その頃、甘藷は農家の主食だったし、年中これがたえることはなかった。
従って毎朝それを収穫して芋たきをするのが主婦の日課であった。それに小芋や蔓葉は家畜の餌にするので、すべてを利用することが出来た。
甘蔗は、年に1回11月から翌2月ごろまでに収穫し黒砂糖を製糖する。当初馬を利用して鉄の歯車を回転させて甘蔗の茎汁を搾り、それを煮しめて黒砂糖を作り出す、いわゆる製糖である。元々1623年頃儀間真常によって始められたと伝えられている。
自分の少年時代数名の人力労務者と馬2頭が終日働いて300キログラム位(樽5丁)の製糖能力であった。
従って数家族から10家族の農家が一つの製糖場(サーターヤ)を構築形成して部落内に数箇所の製糖場が存在していた。昭和一桁時代(1926~1936年頃)までは、ほとんどこの形式の製糖工場だったが、その後機械化が進む。
しかし、機械化されたものの生産量はほとんど進展がない。農地に限界があるからであろうことがわかるとしてある。
こうして製造された黒砂糖は60キロ入り樽に詰めて町の輸出会社に出荷する。その価格は国の関係機関が設定するため価格とコストのアンバランスはサトウキビ農家の営農事情に大きく影響していた。現実には国の施策支援なくしてはキビ農家の経営状態は困難だといわれてきた。
それでも沖縄にとって黒砂糖が唯一の農産業であった。
少年時代、そのキビの刈り取り作業や枯葉剥ぎ作業によくかり出されたものだ。その製糖作業の手伝いは、肉体労働のため、最もいやな季節農作業だった。なお2月立春の季節は大豆の種まきの時期である。約4カ月後に収穫期を迎える。
米須は土地柄、大豆栽培に適していたので農地の空地を利用して多くの農家がそれを栽培していた。農家にとって換金作物としても利用価値のある作物である。
大豆は味噌の原料であり、農家では各家庭で自家製品にほとんど使用されるし、豆腐の原料としてもよく使われる。豆腐を作ることにより副産物は家畜飼料用にもなるので頻繁に作るし、年1回作の大豆は極めて貴重視された。
幼少の頃、生産された大豆を大型瓶に貯蔵し屋根裏に保管していたのをよく覚えている。
同時に大豆の収穫や脱穀作業の辛かったこともよく覚えている。要するに夏季(6~7月)の炎天下空気の乾燥した真昼間の脱穀作業は、棒で叩き豆皮から脱穀するので最も陽照りの強い日が適しているからである。
裸になり汗ビッしょり流して車棒を振り廻す脱穀作業は激しい肉体労働であった。先祖伝来の大豆作り農家、しかも小さな農地に於ける大豆栽培者にとって、これ以外の方法はなかったのかも知れない。
4 地勢と人口
幼少の頃、父がグスク(城)で馬草刈をしたため、急病を患って酷い目に会ったと云う話をきかされたことがある。