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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(4)

 それはどういう意味があって、そんなことになるのかは知らないが、とにかく御嶽(ウタキ)で木を切ったり、草を刈り出してはいけないと云うことを父母から聞かされた。
 そのためか知らないが、この場所は木や草が生い茂っているのは事実である。小学校への通学路にはその近くを通るのだが、そこへ立入ることはほとんどない。
 唯一先生に誘われて行ったことが1回あるだ
けだ。その実態はよく知らないが、幸い『米須字誌』に詳細に記録されているので一部引用すると次の事が云える。
 米須グスクは、海抜53メートルと小高い場所に位置し、南側に傾斜状になり、そこに集落が形成されている。そのため年中紺碧ブルーの美しい海が眺められ、船舶の往来、清流の海風が漂う風光明媚な集落と村人たちは称えている。
 その部落の歴史は古く1900年頃の米須部落は140家族750人程度だったらしいが、西暦2000年には260家族1350人程に増えているという。
 のみならず外来の移住者も予想以上にいて、実質的には約100年間で2倍の人口に達し、住みよい発展性のある地勢である事がはっきりと言えるわけだ。
 それは、生活環境のよさと共に水の豊富な点が大きく影響しているものと思われる。
 部落前方4~500メートルの海岸には大量の湧水が出る湧泉(スガー)があり、昔は飲料水に使われていたらしい。
 がしかし、水汲みには遠いことから他に泉を捜索したのが部落後方の福井泉(フクラシガー)であるという。
 しかしそこは、山道でうす暗い自然壕の中で朝夕は暗く不便だった様で、更に部落東側に暗泉(クラガー)が見つかり、その地域の住民に便宜を与えた。米須は島の南端のためか石灰岩の地下水が集り、掘り当てると泉として湧水になる可能性がある。
 1928年には、わが住宅近くに発見された泉があり、「栄泉(サカイガー)」と命名された。地下約10メートルに石段工事を施し竣工した年に私が生まれたと父母は語っていた。その泉に最も近いわが家の屋号は、三男前新山城小だが、地域の人々は「泉の上」(カーンイ)と呼び、「カーンイのイサム」と愛称よく代名詞で呼ばれたのは、そのためであったらしい。
5 文化活動

 小さい島の沖縄で特に書きたてるほどの米須文化なんかあるはずはないが、部落の慣習的年中行事と云えば、大正時代(1912~1926年)に米須ハーリーがあったが、永続きせず3~4年で廃止されたようである。
 春季末になると、農村で製糖業終了を期して開催されるアブシバレーと称される祝賀行事がある。農村にとって最も多忙な製糖期が終了したという節目を祝う農家の休日で、5月下旬に催された。
 7月には大綱曳き行事があり、その歴史は古い。期日は毎年旧6月25日で1ヵ月前からその準備に取りかかる。以前は子供たちによる「チンク」と云う行事で賑わい青年たちの「ガーエー」なども盛んだった。最近はその二つはなくなり綱曳き行事に集中している。
 そしてその前日から綱作り作業のため村人たちが藁で綱作りに励む。直径50~60センチ位で数十メートルの大綱が東西両方で作られる。那覇市の大綱曳きはギネスブックにも記されているが、形式は同じで期日と大きさがそれぞれ地域によって異なる。米須では、これが旧暦の6月25日をその行事にあてている。