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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(6)

 当時の間切長宮里蒲助の名をもって蒲助浜と付したと歴史は伝えている。そこで蒲助浜(実質的には米須海岸)の砂丘に糸満から漁業者(ウミンチュー)数家族が呼ばれ移住し、浜小(ハマグワー)と云う集落が形成され誕生した。
 この集落は、去った沖縄戦(1944~1945年)まで続いていたが大戦によって灰儘と化し、今ではその痕跡さえ見えなくなった。
 沖縄県人会サン・カエターノ支部所属の山城信雄のお母さんはこのハマグァに住んでいた生き証人である。

8 わが一族の海外移住(前新山城小)と米須出身ブラジル戦前移民

 父蒲三の兄弟は、姉1人、兄2人、弟1人の5人兄弟である。長女ウト、長男利一、次男牛助、3男父蒲三、4男勝雄で、その中の長女ウトは同村の山城蒲太と結婚した。
 1906年21歳でハワイに出稼ぎで渡ったが数年後に帰国し、子供たち3人(男2、女1)を養育、主人のみハワイに滞留して永年別居していた。後にその長男清幸、次男正資、長女千代、子供たちもハワイ二世としてハワイに呼寄せ移住した。
 更に、私の母(ユキ)の叔父仲本蒲戸も1908年に同じくハワイへ移住したが、1956年50年振りに帰国した。その一人息子全昌は、1男2女の子供をもうけて一家を築いてハワイにいる。
 なお父の兄利一は1925年、弟4男の勝雄は1929年に単身でフィリッピンのダバオに移住し、更に利一の長男弘と長女トヨは1934年に、また次男幸助が1937年にそれぞれ父親の呼び寄せでフィリッピンに移住した。
 しかし、長女トヨは戦災で死亡、その他は皆日本の敗戦で1946年に引揚げてきた。その後も従兄弟たちは元気に暮らしていた。
 ところで、米須出身のブラジル移民の嚆矢は、1918年(大正7年)にハワイ丸、博多丸、讃岐丸でサントス港に上陸した5家族16名である。以下にその氏名を銘記する。
大正7年(1918年)5月のハワイ丸 10人
大正7年(1918年)9月の博多丸 3人
大正7年(1918年)10月の讃岐丸 3人
以上3便16人によって、クミシンチュー先駆移民が初めてサントス港に上陸、ブラジルの大地に第一歩を印したのである。

9 摩文仁尋常高等小学校へ入学

 1928年生まれの子供たちは、1935年には小学校の入学時期で義務教育への第一歩である。日本では義務教育はほとんど100パーセントに近い就学率である。
 従って私自身、その年の4月6日に摩文仁尋常小学校へ母と一緒に行った。その時6才4カ月だったが、一年生として入学を認められホッとした。入学資格7才が原則だったからである。校区5集落から集った多数の1年生のイ組2番に字摩文仁からきた金城アキと云う女の子と同席することが決まった。何故か知らないが1年生だけイ組、ロ組の2組に分かれていたようだ。
 担任は字小渡出身のかなり高齢だった大城ハル先生で常に羽織袴の威厳に満ちたお姿の先生だった。
 学校校舎は昭和元年に建設間もないま新しい煉瓦壁赤瓦葺の洋式建築で立派なものだった。そのためか勉強も楽しく誇らしい気持ちで通学に励んでいた。ハル先生はリンゴについての勉強時間には用意周到に準備された紙箱からリンゴを出し、児童にとって始めて見る本物のリンゴを説明、しかも4つ割にして児童に与え味覚に訴える指導であった。