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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(8)

 私には中味はよく知らなかったが、千人針の腹巻布を贈って武運長久を祈るとか翼賛会、国防婦人会など理解し難い組織や言葉が頻繁に聞かされるようになった。
 1940年4月、私は6年生に進級した。担任は真栄平守正先生だった。先生は倫理観に優れた先生であった。6年生とは云いながら教科書以外に読書をしたこともない片田舎の私たち学童に放課後1時間読書時間を設定した。
 希望者を募ったが、参加したものは少なく、先生の予想は裏切られた形となった。説得されて私を含めて5名が集っただけで、しかもどの本を読めばよいか全く見当もつかない有様であった。
 どうやら先生の指示をうけ小学生向け「世界文学全集」が選ばれ、その読書を勧められたた。初めて見る分厚い「世界文学全集」の記憶は薄れたが、『ガリバー旅行記』や『ロビンソンクルーソ』など、特に興味深かく読んだ『アラビアンナイト』、『千一夜物語』などが今も頭に残っている。
 真栄平先生による1年間の教育は、私の人生に少なからず影響を与え、学ぶことへの意欲と修養意識を育んでくれたことで、生涯忘れることはないだろう。

 10 頑固親父と私

 父は前述の通り前新山城小(メーミヤングスクグワ)の3男である。生年月日の生まれ年は知っているが、月日のことははっきりしない。が、母は1906年生(明39)で7歳年上と云うことだけは覚えていた。
 去った沖縄戦で父は防衛隊の一員に召集されて戦死した。生れて15歳まで同居し、その後青少年義勇隊に志願して茨城県に渡った私は、さらに満州へと戦争の荒波に揉まれ、離れたまま父と死別してしまった。満州から帰還し辿り着いた故郷米須は、草木の形さえない焼け野が原に変わり果て、そこには弟新八と共に父の姿はなかった。
 生まれて15歳になるまでに15年間家族として父の下で同居してきた私にとって父蒲三は、頭の堅い頑固親父としかいいようがない存在であった。親子の関係では命令調に徹し、子らがこれに逆らうとか、自分の気にくわない言動があると、言葉で諭すことはせず、怒ってどなりつけ、わが子を威圧する親父であった。
 少年の頃の私には、怖い親父の印象だけが頭にこびり付いていて、親しく話したことはほとんど覚えていない。
 ところが村の住宅の建築や改築・荷馬車による運搬、製糖期の黒砂糖製造などほとんど親父が引き受ける棟梁であり技術屋として村人から重用される貴重な存在であった。
 私は、連日輓馬の世話や建築現場へ機材運びなどの手伝い、製糖場での窯たき助手をしたりよく親父から手伝いを指示された。親父には10数人の弟子工夫や雇用人がいたので、一介の棟梁気分もあり、家で打ち合わせや賃金配当なども頻繁だった。そして建築棟梁の技能の必要性を悟っていたのか、日本の宮大工の優れた技能話をよく話題にしていた。
 事実、彼自身美しい欄間作りなどを得意気に新築現場で紹介していたことを思い出す。今に思えば、学校の休日にはきまって建築工事の手伝いを命じられていたので見よう見真似で大工仕事を自然に覚えて、簡易住宅の建築などに自分自身で手懸ける自信を持てるようになって、移民社会の中に生きている今日においても日曜大工の手業を楽しんでいる。
 更にまた、村の青年たちによる村芝居の地謡には決まって親爺が三線奏者として起用されていたので、余暇は三線の研修に余念がない多趣味な人であった。