なかでも小学校6年生3学期からは進路指導があり、先生との接触が頻繁となる。元々私は、小粒な身体で遅進児ゆえに同級生の間ではチビッ子呼ばわりだった。それだけに体重も軽かったのであろう。
鉄棒では技も割りによく、懸垂では18回で学校では常に優勝していた。身体こそ小さいが負けず嫌いな性格だったようである。満蒙開拓青少年義勇軍への申込みは、いの一番合格が届いたので家族は否応なしに容認してくれた。そして久保田先生は、その栞を取り寄せてくれた。
大陸は呼ぶ
1. 俺も行くから 君も行け
北満州の 大平野
広漠千里 果てしない
自由の天地 われを待つ
2. 望む彼方は 高梁の
丘吹く風と なるばかり
ああ大陸の 空を飛ぶ
捨て身の雲の 翼かな
3. 生きて帰らぬ 命なら
誓いて 堅き此の胸に
高鳴りおどる 大和魂
熱血今ぞ あふれける
親爺は、勇は長男坊であり助手に都合がよく、将来後継者として育ってもらいたい思いであったろうが、いっこうに口には出さなかった。他人事のようにうんともすんともなく無表情。でも母と姉が賛成してくれたので反対のしようも無かったのかも知れない。
私は、しめたとばかりに急拠旅支度に取りかかった。はるか茨城県の内原訓練所、その名称だけは覚えたが、その訓練所とは一体どんな内容なのか全く知らない。寒い土地だと聞いているので一抹の不安がないでもなかった。
しかし、隣家の徳元清孝兄貴がいた。一喜一憂、暇を見て兄貴を訪ねること頻繁となる。彼は3歳年上で、青年学校で銃剣術や教練も修得していて、先輩として色々と教えてくれるばかりでなく真の弟分としてアドバイスしてくれた。
ところで、3月11日訓練所入所を前に、那覇の海洋会館で手続きと同時に予備訓練が2週間あるとのことで、2月中旬学校を出なければならないとのことだった。
しかし私の心は、すでに茨城の訓練所へ飛んでいた。
指示された携帯品を詰め込みそのリックを背負い、久保田先生指示通り徳元兄貴と2人で学校に惜別のあいさつ。校長先生から是非と、全校生徒に別れを告げるべく朝礼時間まで待たされた。始めて指揮台にあがり緊張しながらなんとか出自のあいさつを果たした。
海洋会館で2週間の日程を終了し、1943年3月3日那覇を出港することになった。その日は、まれの快晴だった。朝日に照らされ子を背負って埠頭に立つ母の姿が目に焼きついてはなれない。長男であるわが子を初めて旅に送る母、船上の自分に小走りながら懸命に手を振っている。あの姿を見るにつけ、おさえがたい涙がこみあがってしようがなかった。
当時の船便は、那覇から鹿児島まで2泊3日、鹿児島で一泊して汽車便で東京を経て茨城へ向うコース。始めての船便には船酔いに苦しめられたが、健康にはなんら問題はなかった。鹿児島での一泊で元気を取り戻し、翌日汽車に乗り込む。長い汽車の旅には退屈もさることながら、はき出す煙には往生した。