「日本語教師や邦字紙記者」から「埼玉で年商8億円の企業家」へ―ジャーナリストの野呂義道さん(70、埼玉県)は日本語教師、邦字紙記者を経て帰国し、(有)ワールドリンクス社(本社・埼玉県坂戸市)を創立してブラジルへ日本食品の輸出を始めて成功した。この度、社長職を子息に譲って引退する決意をして来伯した。当地の仲間がサンパウロ市のカラオケ店でスルプレーザ(サプライズ)の古希祝をした9日、話を聞いた。
1947年6月生まれの野呂さんは中央大学文学部を卒業。「学生運動真っただ中で、ほとんど授業もなかった。学生運動にのめり込まなかったが、社会科教師になるつもりだったから外国に興味があった」という。
3年ほどサラリーマンをしたが「息苦しかった」。1974年たまたま朝日新聞で「ブラジルで日本語教師が不足」との記事を見て、渡伯してサンミゲル・アルカンジョ日本語学校で9カ月間教師をした。「それが1年前に突然、当時の生徒から連絡があって感激したよ。今じゃ50代だよ」と遠い目をした。
その後、日伯毎日新聞(本紙前身)で記者になった。「一百野(いおの)雄吉編集長に仕事ありませんかとお願いしてなった。当時は企業進出ラッシュで、毎晩のようにブッフェ・コロニアルで進出パーティの取材。とにかく日系社会に興味があった」。2年後、「日本に帰るから東京支局をやらせてくれ」と頼み込んだ。
フリージャーナリストとして総合雑誌『世界』『潮』等に記事を書いて生計を立てる傍ら、東京支局の仕事をした。繰り返し来伯取材をして、中林俊彦日毎社長の息子で、学生運動に身を投じた純さんを中心にした日系活動家のノンフィクション『サンパウロの暑い夏―日系テロリスタの闘い』(講談社1985年)を発表した。
90年、JICAコーディネーターとして再来伯して4年余り、製造自動化のコンピューター設計などの指導をした。この間に培った日系人脈に輸入会社ゼンダイがあり、そこへ日本食品を輸出する仕事をするため、98年に埼玉にワールドリンクス社を設立した。
ブラジル食材店、シュラスカリア店もするようになり、従業員12人中ブラジル人は5人。中でも千葉支社は社員全員の4人がブラジル人。「中には月に2千万円売り上げるブラジル人社員もいる。規模拡大は彼らのおかげ」という密接な関係を続ける。
「ブラジルが肌に合っていた。もし日毎支局をやらなかったら、まったく別の世界の仕事をしていたかも」と振りかえる。関節痛などに苦しみ、引退を決意。今回は約50回目の訪伯だった。本人には知らせず、9日晩にサンパウロ市カラオケ店で二世友人ら約50人が古希祝を突然催した。
日毎時代の知り合いが次々に会場に駆け付け、日本の社員や息子や孫からの古希祝のメッセージ映像がその場で上映され、野呂さんは涙を流して喜んだ。5月26日から今月13日まで滞伯し、旧友との再会を楽しんだ。
□関連コラム□大耳小耳
野呂義道さんが日毎東京支局長をしていた時代の成果の一つは、1981年12月、日本の文化放送(東京)と日毎紙が共催で日伯青少年交流キャンペーン「ブラジルの日本語学校に愛唱歌を」の企画・実施だろう。その作詞コンクールで、サンタカタリーナ州の本多清香さんの『私の町ラーモス』がグランプリを受賞、TVで有名な作曲家・神津善行さんが作曲するなど日伯交流に貢献した。今でもこの歌は移住地で愛唱されている。