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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(21)

 米須部落の中心地(元摩文仁村役場のあった地点)も全く打ち変って、部落の配給所となっていた。区民は食糧の配給を受けるため多数の人々が集っていた。そこへトラックから私は下り立った。その人込みの中に母と姉がいた。咄嗟に「いさむ」と抱きしめられた。玉砕したはずの母と姉がこんなに元気で生き延びていたのだ。本土避難から帰還する人々が増えたので、近い中に勇も生きて帰省するはずと待ちかねていたとのことだった。激戦で何回も死線をくぐり、九死に一生を得てこうして生き延びていたのだ。日頃無頓着ながらもやっぱり生還し再会を果した喜びは押えきれない。涙が流れ落ちてどうしようもなかった。
 内原訓練所入所以来4年、軍国主義青少年時代は、山あり谷ありで、家族を失う悲惨な敗戦にうちひしがれ、占領軍の軍靴に踏みにじられているわが生まれ故郷。始めて見る黒人兵やアメリカ兵士達の群れが週末頻繁に戦跡地や海岸にたわむれ遊んでいる姿を見せつけられ、戦争の無慙さ・敗戦国民の痛嘆の思いが胸をしめつけるばかりだった。
 引揚げ数日後から生まれつき農家の長男として父母に手伝った農地を見ながら、昔ながら芋作りの手伝に出掛けた。占領軍による農地の均衡工事で戦前の農地は総て形勢を全く変えられてしまっていた。それに戦争で死んだ人骨が土の中から掘り出されることもよくあり、荒蕪地開墾は余程気をつけねばならなかった。時たま弾丸が鍬先にかかり、戦地のむごさをみせつけられる思いであり、2~3年前の農場が荒れはてたまま残っているのであった。
 住んでいる家屋も石を積みあげ、焼き残った木材を使用、茅葺かテント葺の雨風しのぎの極く質素な住家に二家族一軒といった具合、更に裸で捕虜となり衣服のない人々が多いため、軍服の支給があったがそのまま着けられない。それを少々つくりなおした軍服布(HBT)そのものが一般的衣服だった。食物も軍が配給する米・トウモロコシや豆類に大小缶詰類ではとても足らず、早急な芋作りに精出していた。
 とにかく敗戦・捕虜・避難の悲痛、恐怖におののいた壕生活から解放され、生き延びた安堵感も束の間、難民のどん底生活を強いられていたのであった。敗戦・玉砕から九死に一生を得て生き延びた喜びはほとんど見られず、敗戦の悲痛な生きる苦しみをひきずっているばかりだ。丁度その頃満州から引揚げてきたわけだ。
 しかも、わが米須部落は激戦終焉の地とあって、その犠牲状況はこの紙面に書き尽くすことはとうていできない。しかし、あの悲惨な沖縄戦の未曾有な悲劇を蒙った戦争がその子孫に伝わらず埋もれてしまってはいけないので、いくらかでも概略を伝えなければならない。