従って学校の運動会、村体育協会の陸上競技大会・綱引き・村芝居に至るまで青年会が活動せざるを得なくなり教職員会の行事以上に多忙となった。糸満地区には東風平村、兼城村、高嶺村、糸満町に三和村の1町4村の町村が一地区を形成している。その地区青年会が毎年11月初旬には地区体協と共催して陸上競技大会を開催した。おそらく県内各地区もそうであり、秋の賑やかな風物行事でもある。
それを取り仕切る町村の青年会長や役員は学校の教員たちが主体であった。兼城中学校の下門律善さんが地区青年会長に推されていたし、糸満高校の上原博さんと東風平村の外間喜明さんが副会長として地区青年会をリードしていた。更に高嶺村は助役が青年会長であったし当時地区青年会は錚々たる人材で形成されていた。いわゆる退役軍人や鉄血勤皇隊生き残りの意気盛んな人達がそのポストを握っていた。これは地区青年会に限ったことではなく、県の沖青協(沖縄青年連合会)にしても言えることだったと思う。
1952年初めて行われた沖青連の沖縄本島縦断駅伝競技大会には、その選手の1人として参加した折、尚詮さんが唯一ジープの所有者で、自ら沖青連役員と共に選手たちと伴走し青年運動の立役者として名実共に活動していたのを目のあたりにした。
また安座間磨志会長に西銘順治氏、大城真順氏等が顔を揃えて青年運動の一員として参画したものであった。同時に敗戦日本の宿命とはいえ、母国から切り離され、米占領軍に踏みにじられ、継子扱いされている沖縄の本土復帰こそ急務と訴える教職員会々長の屋良朝苗先生獅子奮迅の活動振りに圧倒されるなど、戦後の過渡期に一歩早くも日本青年団に復帰した沖青連の活躍は目覚しいものがあった。特に沖青連の村おこし運動は県民と一体になった県民運動への域に達していた。
1952年11月東京で開催された「講和記念全国青年大会」に安座間会長他5名の幹部がオブザーバーとして参加した。その頃本土では既に戦後農村2・3男対策からスタートした産業開発青年隊運動が動きだしていた。翌1953年4月には日本青年団協議会(日青協)に正式に加盟が認められた。同時に沖青連でも産業開発青年隊運動の素晴らしさを認識しその導入を決定した。そして琉球政府にその予算処置を申請すると共に本土の青年隊の実態調査と各県への受け入れ要請を行った。そして翌1954年11月には第1次本土派遣青年隊として10名を青年隊運動のさきがけとなる隊員養成を目的にして派遣した。以後第5次まで47人が続いて本土各県に派遣された。
設立趣意書
戦後9年を経過した今日、社会はようやくおちつきをとりもどしてまいりました。沖縄青年連合会は結成以来、つねに会員相互の知徳の練磨と社会浄化のために専念、努力を続けてまいりましたが、過度期における青年運動は、われわれの眼前につねに幾多の障壁が前進を阻み、充分なる成果をあげえなかったことを遺憾とするものであります。
今回、本土において活発に展開されている産業開発青年隊に沖縄の青年も参加させようと計画致しております。青年隊とは、青年たちが共に暮し共に働きつつ学び、青年会のもつ組織的実践を通して、国土の開発、国家の繁栄と平和の建設に貢献しようとする運動であり、毎日の集団生活は、青年の社会意識を高め、研究と実践を通して、技術を発展させ、人格、知識を豊かにして、新しい時代への人間の完成を目指す運動として、別名農村の2・3男対策運動ともいわれ、時代の進展にともなった新しい青年運動として期待されています。