アメリカ合衆国国際農業青年交換計画制度もその一つでハワイには国際協力センター支所がある。その制度とセンターを利用しハワイ沖縄県人連合会とハワイ大学共催による戦災沖縄の農業青年研修をハワイで6ヶ月実施する目的で1953年から実施されていた。
そして県人連合会や市町村人会が青年達の受け入れ研修農家の世話及び指導アドバイスを大学側と分担している。そのため土・日曜日は定期的に4Hクラブの集会に参加が義務づけられていた。それに県人連合会と市町村人会では1年に6市町村の受け入れの順番があり、1955年度(第3期は金武、宜野湾、美里、具志川、大里、三和の6町村からの6人だった。研修生6名はそれぞれの市町村人会が青年達の意向にそって農家を指定するので、それに従ってレポートすればよい仕組になっていた。
この制度の存在を知った私は、常々海外雄飛の機会を頭に描いていて、ハワイ県人移民の実態に関心を寄せ調べてみたい矢先だったので、これこそ渡りに船とばかりにこの農業研修を絶対逸しられない機会として、研修参加を申請したのである。そして研修第3期生として出発することになった。
しかし、何故か出発が3か月も遅れた。その理由は、私が満州時代にロシア軍との接触があって、その経緯を検索していたことを思いだすのであるが、ハワイへの往復航空便は米軍機に便乗してグアムやサイパンを経由し、途中休息もするので機密漏洩には厳しく対応していた実情が、今にして思い知らされるのである。
ともあれ私は、海外雄飛を念頭に暗中模索の態で、ハワイ農業研修に参加したのであった。
ホノルル市郊外パイナップル農家研修
1955年10月28日私は、最初にホノルル市郊外パイナップル農家翁長家に1ヶ月間の研修に参加した。
真壁出身の翁長さんは三和村人会で先輩格である。耕作地は20エーカの借地農で、以前は野菜とバナナ作りをしていたが、最近パイナップルに切り替えたと云う。プランテーションと契約し指示に従って栽培する。苗は約3~4週間前に選び取り日干しをする。その日干しは苗の基部分を乾燥させるのが目的で、植え付け後の苗腐れを防ぐためであるらしい。その苗の選別法は特に注意する必要があることを教えてくれた。要するに収穫期を一定期間に揃える一つの工夫だと云う。
ハワイではプランテーションと農家との契約で年中収穫し青果用と加工用が常時供給される方法をとっているとのことである。従って栽培農家はプランテーションの指示に従って栽培しなければならない。しかもパイナップルのサイズまでもほとんど一定規格が指示されると云う。
こうした栽培法は労働力さえ提供すれば誰でもよいことで無学文盲でも可能だという。肥料、害虫駆除総てがプランテーションの指示によって実施すればよいわけで、生産コストを最小限に引き下げ、経営の合理化が徹底されている事は云うまでもない。
農家にとっては頭を痛めることもなく天候にまかせて見守り、プランテーションと連絡を蜜にするだけでよい。そのためか肥培管理の内容を問うってもこれに答えることが出来ない。