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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(27)

 全く遺憾なことであるが高齢者にとってはこれでよいとのことである。それでも若い頃よく働き稼いだものだ。東京で医学を学ぶ弟に資金提供し医科大学を卒業させ医学博士にまで育て上げたことは自分の誇りである、と誇らし気に語っていた翁長さんの兄弟愛に感動した。その頃東京の慈恵大学病院の院長である遠藤義雄医学博士がその人であった。
 翁長さんは64歳で長男夫婦に孫2人と6名家族で郊外の農家でハワイ主要農産物パイナップル作りに励んで3ヵ年目とか。サイミンスタンド(レストラン)金城憲一農業研修とはいっても適当な農家や畜産農家の見つかるまで従兄弟にあたるこの金城家にいる他なかった。
 憲一52歳、一世、24歳の娘を筆頭に5名の女の子と妻千代42歳二世、1人息子の長男と8名家族で夫婦が主体で家族によるレストランを経営していた。店の向かいに小中学校があり、朝夕児童生徒が混む場所でいつもお客が一杯の店だった。従って人手不足、猫の手もかりたい状態である。
 私は、みたことのない従兄弟とはいいながら彼等の多忙な働きを見て手伝わないわけにはいかず自然に手伝ってやる。皿洗い、食卓の始末いくらでも仕事がある。それがエスカレートして暇には呼ばれる。そのかわり彼の知人友人を訪ねてあいさつ廻りする。
 そして養豚農家や養鶏場見学へと案内役もしてくれる。多忙なひとであるが自分の従兄弟3名の中の唯一女性、千代姉の旦那にあたる人で世話好きな性格から彼が私の世話係になっていた。三和村人会と云う小さな組織ではあったが、国際農業青年交換計画制度の協力者と云うことを彼は誇りに思っての行動でもあった。
 たまたま集るハワイ大学では直接指導に当るバロン後藤教授やゼームス重田教授と語り会う機会も彼は楽しんでいた。ハワイ島やマウイ島、オァフ島の各地域へ外出以外はちゃんとした日程表に従って行動、しかも常に案内役として連日外出していたので感謝の気持ちで接していた。

 オァフ島ワィアナヘ照屋浮俊農場(糸満出身)

 ワィアナヘ地区は、ホノルル市より車での走行時間3時間である。照屋さんは主産物パパイアで高い木を低くするだけでなく、栄養バランスや大きさも調整し品種改良に務めた篤農家である。ハワイ大学の農学部と提携して品種改良や農機具の創意工夫・改善にも意を注いでいる。
 従って農家ながら工作機械の整備で常に新しい農機具の改良・効率化を考えて決して無駄働きはしない人。同氏曰く、農家は「考える農民」であり、「儲かる農民」でなければならない。
 「骨折り損の臥れ儲け」は原始農民の話しだと云う。氏が20年前パパイヤ栽培を始めた頃、2メートル以上の果実を収穫するのにひと苦労したが、品種改良により現在の1メートル50以下に出来たし、収穫機も必要とせず機械燃料も使わずに済む。
 しかも動力の節約・労働時間の短縮など総合的に計算すると、大きな経済効果を生みだしたことになる。更に人体に与える有効成分の研究も進み最近朝のコーヒータイムに2人に1個のパパイア常食を奨励するとハワイ大学の果実研究チームがアピールしている。
 そして生産農家は直接消費者に販売する(1週2回月・木)には早朝4時に家を出る。2トントラックを自ら運転し数時間かけて得意先に配達する。いわゆる中間商人の収奪をさけるためであり、市場状況の直接調査でもあると云う。