翌日予想通り早朝から雨だった。照屋さんの予想は的中したわけである。農場を一巡した彼は出荷用箱の組立作業がある。続いて納期の準備をして雨後の多忙に備える。ほとんど午前中にこの作業が終る。
午後少々小雨となったので乗用車で隣の村ミキルア地区の風車による水の汲み上げ現場視察を行う。始めて見る風車の仕組みは珍しいが暴風の多い沖縄では全然使えない装置だときめつければ、さほど興味のあるものでもない。但し、そのミキルア地方に糸満出身の上原さん一家が住んでいる。同郷の誼で照屋さんがそこを案内してくれた。
糸満からの移民は少ないのでこの地区唯一のイチマンチューと語っていた。出荷量が多い場合は、午前中に2回往復することもある。心身共によく働き若者顔まけの働きぶりには実に感心するばかり。そして今日は2日分働いたので市場見学に案内すると云うことで、レストランで昼食して見学に出掛ける。
マウイ島 山城家 (字波平出身)
ハワイ到着後2週間ホノルルのサイミンスタンド金城憲一(従兄弟の千代姉さん主人)家で世話になっていたが農業とは無縁のレストラン経営者だ。三和村出身の農業経営者はいないものかと模索していた。そこでハワイの特産物はパイナップルが通り言葉、唯一マウイ島在住の字波平出身山城さんが浮かびあがって、その家庭に入ることになった。
案内人は仲本のオジーが旧友と云うことで推薦した。山城家は仲本のオジーが移住当初からの友人と云うことであった。飛行機で約半時間の距離である。山城さん夫婦に娘、息子の4人住まいの家庭で、その娘は会社勤務。息子は次男坊だが両親と共に農業を営んでいた。土地は25エーカーの借地でパイナップル専門農家。パインは缶詰加工用でその会社と特約していた。
その次男(ポール)が総べて取り仕切っているが日本語を全く解しないため、残念ながら私にとってそれ程研修相手にもできなかった。むしろ敗戦後の沖縄事情を知りたい隣近所の県人たちが連日立ち寄ってくるのでほとんど1週間位仕事にならない日が続いた。
去った大戦で子弟の二世(部隊第442部隊)がヨーロッパ戦線で大活躍し親たちの祖国を敵にまわしアメリカ合衆国(母国)に忠誠を誓った彼等二世たちを賞讃していたし、特に県人子弟による沖縄戦の戦場での通訳二世たちの活躍が多くの人々の命を救ったことなど誉め称えていた。当時満州滞在中だった私にはこう云う事実をほとんど知らなかった。私はその無知を恥じるばかりで恐縮していた。
日本人ハワイ移民と二世兵士たち
日本人のハワイ移民は、1868年の明治元年移民が第一陣で、それから約75年の移民生活で培った二世子弟たちによる二世志願兵442部隊の出現は、二世にとっては祖国アメリカ、一世移民にとっては養国アメリカ合衆国に対しての忠誠熱誠であった。この2600名の二世健児たちの戦功を讃えるために、1946年8月勝利をかざりヨーロッパ戦場から凱旋したその時、ニユーヨーク港の埠頭は最大群集が人々の山を築いたと云う。
そして二ユーヨークからワシントンへ特別列車で移動白亜館に迎え入れた。当日雨天にも関わらずトルーマン大統領は、自ら広場に出て閲兵「全アメリカは諸君を誇りとする」、そして連隊旗に特別勲章を結びつけ、うやうやしく敬礼壮厳な儀式で讃え上げたと云う。