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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(30)

 アメリカ陸軍史上空前の紫心部隊、勲章部隊、勲功部隊として二ユース映画になったことは申すまでもない。この「442部隊の実践記録」という本と、「第442部隊」の本2冊がその部隊に所属した兵士たち自身が書いているので機会があったら見てごらん、と云うことだった。第442二世部隊の異名とする功績部隊とはアメリカ陸軍史上未曾有のことだと多くの新聞は報じたと云う。その異名とは下記に説明すると
紫心部隊=アメリカ全陸軍中最も多く死傷者を出した部隊のこと。
勲章部隊=最も多く勲章でかざられた部隊を称していう。
勲功部隊=個人でなく集団・部隊に対する勲功は大統領が贈る感謝状で、軍最高位の栄誉とされること。
 こうした勲功の裏には多数の二世兵士の犠牲があったことを物語る。国立記念墓地ハワイのポンチボールを覗けば納得できる。1万数千の英霊が眠る。ポンチポールはホノルル観光コースの一つとなっている。

 9 結婚記念日

 結婚記念日は1956年6月17日1951年3月三和中学校新城幸栄校長に誘われて代用教員に就いたものの元々教員になる気もなかったし、一時腰掛的な気持ちで教職についた。校長は早めに教員資格の取得をとすすめるので、琉球大学の夏季講座や糸満教員訓練所にまで行かざるを得なかった。
 自分にとって将来は農業か畜産業を夢みていたが、沖縄の狭少な土地ではその思いを果せる場もなく単なる夢に終わるか、と半ば諦めかけていた。しかも村役場や部落から教職の他多種多様な依頼事がまい込んできたり関わりが生れたりする。村の青年会長も推されるし、日曜日の4Hクラブ活動も手がけていて、余暇を見て体協だとか青年会だとか1人2~3役にもなると実に多忙この上もない日々であった。
 そこで若い教員仲間に急務を求めたり、協力を依頼したりしていた。その教員仲間の1人が山城千枝子だった。
 村の運動会や陸上競技大会、それに糸満地区の陸上競技大会、更に糸満地区中学校の各種スポーツ行事が頻繁に催される。その都度一致協力してくれるので接触の機会も多い。それに彼女は放課後生徒の個人指導を行ったり、休日や日直の日を利用して何人かの子供たちに補習授業をも行うなど、熱心な女教師像になって映り、心を惹かれる存在になっていた。何時の日か自分の思いを語ってみたいと思っていた。しかも彼女の父親は永年村役場の収入役を務めていたのでよくつき会うし、両家同部落とあって家庭事情も周知していたので将来への配偶者に、と心ひそかに1人で考えていた。
 その以後も接触を重ねているうちに彼女自身も心の内を語ってくれた。いわゆる相思相愛の仲となり、周囲のすすめもあってハワイ行き直前に婚約結納を交した。
 ところが、5月ハワイ出発と云う最初の予定だったがなかなか連絡がない。関係機関に問い合わせても明確な返事が得られなかった。その頃米国民政府で通訳をしている並里の知友を通じて秘かに知ったのが、山城勇が以前満州の頃にソ連軍との接触をもっていたということで検閲にふされているらしい事実が浮んだ。
 そうこうして3ヶ月も遅れてようやく8月末日出発することが出来た。空港到着するや空港出入口のガラス戸が自然に開閉してびっくりするのを初めて見るもの聞くもの田舎者には総て珍しく物量豊かなアメリカ(ハワイ)の6ヶ月間、しかも移民が築いた日系や県系人社会の実態に深く触れることが出来たことは、人生の分岐点を強く意識させたものと云える。