6 在伯沖縄青年協会の創立と
在伯沖縄産業開発青年隊代表の派遣移民青年隊の海外移住が実現したその実態を語る前に、「鉄の暴風」によってやきつくされて敗戦の虚脱状態の中から一部識者の呼びかけに応えて、部落あるいは村の青年団が結成されるようになり、間もなくして地区・沖縄全体の青年連合会(略称沖青連)が組織されていった。その活動と歩みを一べつする必要がある。
沖青連は、1948年12月に発足し、多様な活動を展開したが、1953年頃から「村おこし運動」が叫ばれ、自らが愛するわが郷土社会の建設と活性化(村おこし運動)に力を入れ、若者の学習活動や生産活動へと発展させていった。
その頃、日本の日本青年団協議会では、産業開発青年運動が実践され成果をあげつつあった。1952年(昭27)11月東京で「講和記念全国青年大会」があり沖青連もオブザーバーとして会長他6名が代表で参加した。
そして沖青連の日本青年団協議会へ正式加盟を訴え、翌1953年4月加盟が実現した。それに、日青協が盛んに活動している産業開発青年隊運動も視野に映った。敗戦により海外からの引揚者や復員軍人軍属などの帰国者で狭少な沖縄はいよいよ人口があふれるようになった。
しかも年間の自然増加も2万人と云う。農地は米占領軍に没収される一方、産業らしい産業もなく若者に働く場がなく、唯一米軍雇用は満員で夢のもてる職業でもない。特に農村の二男・三男の将来に希望のない沖縄の社会環境でしかなかった。
そこで多くの県で採用活動している青年隊運動(農村の二男・三男対策から考案された)、にわが沖縄青年たちも参画させるべく、まず指導者養成を計画したのであった。そのため一期6ヶ月間それぞれの県に約10名を配分し見習い訓練に派遣した。
1951年(昭26)に発足したこの運動は、沖縄には1955年に設置された。同年4月25日の第一次入隊式は行政主席をはじめ立法院議長、海外協会長や各団体代表多数が参列して盛大に挙行された。その目的は、青年運動の一環として次のことが掲げられた。
① 地域青年団の役員養成
② 村おこしから国土開発への青年技術者養成
③ 訓練された青年産業技術者の海外移民
この3つを柱として、「働きながら学ぶ」をモットーに昼は働き、夜は2時間の学習を日課とした。講師は琉大の著名教授やマスコミの代表者などが担当した。そして当初名護農試所にキヤンプを設置し、北部のダム工事や土地改良工事などに従事し自主的な共同生活の中で訓練したのであった。
こうして6ヶ月間にわたる規律正しい生活で開拓精神を養い青年隊魂を培うのであった。
ところが去った大戦で閉ざされた海外移民は1952年の講和条約発効により一応開いたが、沖縄は占領軍の施政の下で近親者呼び寄せ以外閉ざされたままだった。移民優先権を獲得した青年隊も1957年4月第1次隊でようやく日の目を見るに到った。1957年4月第一回移民青年隊30名がブラジルの大地に第一歩を印した。その年9月43名、そして10月に25名計98名がブラジルに入植移住した。
沖縄にとって戦後移民の移住者は約10年間と短期間で終っている。1960年代に入いると日本の経済成長により移住者は激減し、青年隊移民も1962年10月までは集団できたが、それ以降は集団もなく日付や移民船も別々となり、その数も1人、或いは2人と先細り傾向となり、結局303名で終止符となった。