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わが移民人生=おしどり米寿を迎えて=山城 勇=(48)

 当時は、未だテレビの普及度も少なく娯楽に乏しい時代、特に若者にとっては皆で楽しめるバレーボールや野球は、大いに期待する行事であった。
 青年協会にとって初めての行事だけに予算や資金もないので本番数日前に協力券1枚5コントス)300枚を発行し役員で売り捌くことにしたので、資金面でなんら問題はなかった。県人会から優勝杯、青年隊から2位、開催地側から3位の賞盃をお願いしてあるので、それ程資金も要せず行事は予想以上に盛大に開催できたので安堵した。
 この行事の成功に自信を得て、2週間後に役員会を催し大会経過報告と共に臨時総会の早期開催日程と青年隊15周年記念行事の件、及びその資金造成など重要な問題を審議せねばならなかった。
 臨時総会において、15周年記念式典行事を1972年7月30日(日)にビラ・カロン支部会館で開催することを申し合わせ、更に資金造成のため素人のど自慢民謡大会を開催することも決めた。記念事業として民謡大会の他にバレーボールと野球大会も開催することも確認した。
 資金造成民謡大会については、県人社会で初めての行事だけに慎重を期して、その愛好者や音楽団体の協力を取り付ける必要から野村流音楽協会及び保存会、そして楽友会にカロン民謡クラブ、更に県人会からも代表者を入れて実行委員会を立ちあげることにした。
 音楽協会仲本魁作・仲本昌源、保存会桝門寛俊、楽友会新城清助、カロン民謡クラブ小橋川蒲助・山田義秀・津嘉山憲一、県人会嘉陽相備・宮城正明事務局長等と青年隊から8役員によって結成し、期日1972年6月18日午後4時、場所サント・アンドレー支部会館を決定した。
 審査委員長仲本魁作、県人会から徳田有次郎ら他8名に委嘱、急遽募集した歌手36名が応募、しかも初めての行事とあって観客は会館超満員の盛会だった。
 卓球などのスポーツ行事はエネルギシュな若者達にとってかけがえのない楽しみにちがいない。戦後移民の多い県人社会では、只単に稼ぎ働き蜂のみでは決してよりよい生活設計とはいえない。要するに一週間一日位でも労務をはなれて皆で楽しもうではないかと呼びかけた。
 そして市内にある小学校の運動場や空地等々を利用し、お粗末ながら草野球を計画したのである。しかし最も簡単に男女共に楽しめるバレーボール大会は小さい広場さえあれば可能な行事である。
 従って、先ず最初の試みとして第一回バレーボール大会を1972年4月、サンパウロ近郊カンポリンポ日語校の運動場で催することに決定した。
 この大会が予想以上の動員数と、その行楽目的に参加者が賛同、共鳴し、且つ盛大に行われた。その成果として、参加者を隊員のみに制限せず、同世代戦後移住者や二世層との交流が少ないので、これを機会に広範囲に呼びかけ、横の繋がりをもっと蜜にしようじゃないか、と云う趣旨を訴え催されたのである。盛会であった。
 この第一回バレーボール大会の成果に自信を得て、早速その場で野球大会に就いても話しが持ち上がり、同年7月にサント・アンドレー市の「IAPI」のカンポで第一回野球大会が催された。先ずバレーボール大会について第二回目の大会をカーザ・ベルデ区で同地の同好者の後援で行われる。
 第三回目は大会より、ジアデーマ市所隣りの沖縄文化センター運動場に移り、現在までカルナバールの休日を利用して年中行事の一つとして盛大に行われるようになった。
 第一回大会当初は、青年隊員を中心に同年代の県系戦後移住者が主に参加していたので、自然に沖縄で覚えたアジア式9人制バレーボールをやっていた。それが回を重ね、年が経つにしたがって、二世、三世の参加者が多くなり、ぜひ6人制も取り入れてくれとの要望により、現在では男女とも9人制、6人制の両方行うことになった。