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ブラジルらしい短歌〈一命を賭して巨悪にたちむかう若き判事は国の光明〉

モロ判事(Foto: Pedro de Oliveira/ALEP)

モロ判事(Foto: Pedro de Oliveira/ALEP)

 「今大会では、いかにもブラジルらしい歌にたくさん出会えて、とても幸せな一日でした」――司会の多田邦治さんはにこやかに、そう全伯短歌大会を締めくくった。
 中でも高点歌2位の〈一命を賭して巨悪にたちむかう若き判事は国の光明〉(山元治彦)は、今の時世を見事に詠みこんでおり、思わず喝采を送りたくなる。ブラジルでしか詠めない歌だ。
 誰も手が付けられなかった大物政治家、大企業家の汚職を次々に暴いているモロ判事。一歩間違えば自分の方が命を狙われかねない。空前の汚職疑惑の中で、唯一の光明が「若き判事」だ。闇が深ければ深いほど光も強く輝いてほしい。そんな切実な気持ちが伝わってくる。
 「貧しさがゆえにえらびしPTを民は深き悔恨の中」(佐藤けい子)も今ならではの作品。それでも国民の3割はルーラを盲信的に支持し、まるで「PT教」的な様相を呈している。来年の選挙で国民はどんな選択をするのか。ラヴァ・ジャット作戦で「洗濯」され、キレイな政界になってくれるのか…。
 「フェイラ終りテントをたたむおじさんが後は帰って寝るだけだと笑う」(住谷久)も、平凡な日常生活の中から、幸せでユーモラスな瞬間を切り取った温かい作品だ。
 移民の切ない心情を詠ったものとしては「ここが我が祖国と決めにしはずなるを夢路たどれば故郷が待つ」(中島すず子)。さらに「国籍を喪失したる赤き旅券穴あけられて帰り帰にけり」(上妻博彦)も「パスポートを無効にする穴をあけられた」という事実だけを詠いながら、その奥に潜む「日本人としての寂しさ」を良く表している。
 「再発も転移もなくて十年生き朝日を浴びて深呼吸する」(志村とく)には、「いつ再発するか」との不安にさいなまれる日常を客観化し、「今朝はまだ大丈夫」と感じて「今」を強く生きようとするたくましさを感じる。
 互選の最高得点歌「千年の命持つ苗植えてゆく大木と見るは孫か曾孫か」(酒井祥三)には、「人の一生」というスケール感からは図りきれない壮大さを感じさせる。土と親しむ日々を送る農民らしい作品だ。
 千年後を考えた時、いったいブラジルはどんな国になっているのか。そして日本は―。今自分が植えている苗は、それを見るだろうが、自分は間違いなく見ることは無い。曾孫、玄孫ですらムリだ。手元にあるなにげない苗に、千年という時間を見通す視線に脱帽。
 デカセギを詠む作品は、ここ2、30年の移民短歌の定番と言える分野だ。「この国に生(あ)れて稼ぎに行きし娘(こ)が帰化し帰らず孫もろともに」(上妻博彦)は複雑な心境を詠ったもの。デカセギに行って帰らない娘を寂しく思うと同時に、でも自分の祖国に定着し、孫もそこで育ってくれているという意味では、どこか喜ばしい部分も。
 「移住地の苦労は秘めて空港に背なの曲がりし母と抱きあう」(高橋暎子)は、成田空港で別れる瞬間を詠んだもの。実際の生活の苦労は口が裂けても言えない、言いたくない。母は無言のうちにそれを察している。次の帰国の機会まで母には長生きしてほしい。きっと、その時にはもっと楽な生活が送れるようになって、お土産も少しは良いもの持ってきたい。そんな想いがこもっているよう。
 「浅学でも鍬一筋の人生に花を添えんと歌詠む晩年」(湯山用)も農業移民の共感を呼ぶ歌だ。
 今年は全伯俳句大会、全伯川柳大会、全伯短歌大会を三つ続けて取材させてもらった。この三つは「いったい何が違うのか?」という素朴な興味で、それぞれ話を聞かせてもらったが、三者三様に持ち味があると痛感。
 共通するのは「作品を詠む心構え」を常に意識することによって、自分の行動や日常を客観化できる点だ。辛くても楽しくても作品化することで体験を昇華でき、1回の人生をより豊かに味わえるようになる。皆さんもぜひ始めてみませんか?(深)