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追悼文=松井太郎さんのこと=サンパウロ市在住 小野寺郁子

松井さん(左端)、小野寺さん(右端)

松井さん(左端)、小野寺さん(右端)

 松井太郎さんが亡くなった。あと一か月で百歳になるところで大層惜しいことであった。
 私が松井さんと知り合いになったのは、一九九〇年代に近くで催されていた、アントニエッタ文章会に出席した時からであった。
 七、八人の会員が、それぞれ自由に書いてきた文章を読み上げると、指導者格の松井太郎さんと梅崎嘉明さんが短評をして下さっていた。松井さんは心臓が弱いので、大声で自分の文を読み辛いからと、私に代読を頼まれた。その当時、私が読み上げた松井さんの文がほとんど後日、日本で発行され好評を得た二冊の本のうちの「遠い声」の原稿となった。
 会を終えて二、三日すると、必ず松井さんより私の所に封書が届いた。それは会の日の評をもっと詳細に、便箋に幾枚も書いて下さり、時には図表まで画き添えてあった。バスでは十二、三分の距離だったので、時々、この本を読みなさい、と言って参考になる本を持って来て下さった。
 だから本当は先生と称ぶべきであろうが、私には先生よりももっと親しい叔父さんのような存在であった。私が歌文集「ときおりの章」を刊行したときも、温かい序文を書いて下さった。ひょうひょうとした小柄な人であったが、物事に動じない肝の太さがうかがえた。
 その松井さんが悲歎に暮れられたのは、奥さんがまだ七十代の前半で亡くなられた時であった。――自分は体の調子で、あまり動けなかったが、家内と息子がよく頑張ってくれたので今日がある――と度々言っておられた。その奥さんの病いが重くなって、松井さんは毎日入浴させてあげていた。大柄で、姉御肌の磊落な奥さんであった。自分のほうが残るなどとは、と言って松井さんはほろほろと涙をこぼされた。
 長い前歯が三本しかなかった松井さんが、日本に居る娘さんの所へ行って二、三か月滞在された時、きっと日本で綺麗な歯を入れて来られることであろう、と私は思っていたのに、帰って来られたら三本あった歯が二本になっていた。
 それで時々訪ねゆく時、私は柔らかい食べやすい物を持ってゆくと、その場で包みを開けて「おや、寒天だ」「あ、今日はお汁粉だな」と相好をくずして、早速おいしそうに食べられた。
 そして折おりに――わしが死んだら、家族の者はどこに報らせたらよいか知らないから、あんたが「松井が死んだ」と新聞社へ知らせて下さいよ――と言われた。
 そして丁度コチアの娘さんの所に行っている時に思い掛けなく亡くなったのである。埋葬は、モジ・ダス・クルーゼスだったので、どちらも遠方で、申し訳けなくも私はお葬式に参列できなかった。
 翌日、お悔みに行った時、息子さんが、「掛けた毛布も少しの乱れもなく、睡ったままで亡くなったのです。父は生涯好きな文学にいそしみ、満足して、誰にも迷惑をかけずに静かに逝った仕合せな人だった」と述懐されたので、白寿で大往生を遂げられたのだと、私も悲しみの中で心慰められたのである。
        合掌。