「珈琲より人を作れ」を掲げ、自営農のためアリアンサ移住地建設に奔走してからおよそ一世紀―。ブラジル力行会(岡崎祐三会長)は、『創立百周年記念式典』を17日、サンパウロ市文協小講堂で開催した。日本力行会から慶祝団14人や遠方からも会員が駆けつけ、およそ200人で節目の年を盛大に祝った。
日本力行会は、1897年に島貫兵太夫牧師が苦学生救済を目的に設立し、移民促進事業を展開。移住教養と基督教教養を施し、戦前戦後併せ1800人の会員をブラジルに送り込んだ。
会員はアリアンサ、北パラナ、レジストロ、サンパウロ市を中心に集団を形成。終戦後、地方在住の学生のためアルモニア学生寮(現アルモニア学園)建設を機に、全ブラジルを一丸とするブラジル力行会が成立。以来、創立の精神を守り、これまで人間教育に努めてきた。
午後10時に開始された式典では、同学園生徒らが登壇し、日本とブラジル両国歌、力行奮闘の歌を斉唱。続いて、先人の遺徳を偲び一分間の黙祷が行われた。
挨拶に立った岡崎会長は、「人生と同様、会の歩みにも山あり谷あり。最初の会員がブラジルの地を踏んでから104年。その間、波の谷間に沈むこともあった」として一世紀の足跡を振り返った。
「だが、幸運なことに良き先達がいた。その残してくれた財産が『霊肉救済』、『珈琲より人を作れ』という教訓。それを目指し努力した多くの会員がいた」と続け、「次の百年に向け途切れることなく繋いでいきたい」と誓いを立てた。
アルモニア教育文化協会の和田忠義会長は、戦後の混乱の中、涙ぐましい募金活動により全日系社会の支援を受け建設された同学生寮の歴史に触れ、「93年創立された同学園も現在では生徒は400人近く。道徳を重んじ日本文化教育に力を入れ、地域のモデル校となっている」と語った。
また、西村俊治技術財団の西村治郎理事長は、48年ジャクト農業株式会社を設立し、その後、教育事業に半生を捧げた父・俊治さんの逸話を紹介した。
「成功の秘訣を社員に説いた父は、『イペーが美しい花を咲かせるのは、根がしっかりしているから』として誠実、勤勉、勤労を重んじることを教えた」と語り、「その価値の源泉は力行会。力行会の精神は素晴らしい種だ」と締め括ると大きな拍手が送られた。
そのほか、日本力行会の村上悦榮理事長ほか、幸脇一英理事、日本力行会海外協会の久保田怜男理事長、森田聡在サンパウロ領事、呉屋春美文協会長らが出席し祝辞を述べた。
引き続き、元研修生が感謝を滲ませ挨拶を述べた他、歴代会長7人の功績を称え表彰式が行われた。その後、場所を移し昼食会が盛大に開かれ、会員らは旧交を温めた。
その後、午後二時からは余興が行われた。生派ブラジル筝の会、グループ民、歌手の中平マリコさんに続き、弓場バレエ団が鳳を飾った。
最後にバレエ団の一員が、創立者弓場勇を偲び、「土と共に生きる。祈りある暮らし。そして芸術すること。開拓の火は今も大地に燃え続けている」と締め括ると、拍手喝采のなか式典は幕を下ろした。
日本力行会二代目会長の永田稠氏の五男で、ブラジル力行会第7代会長を務めた久さんは、「会員自体は少ないが、それでも先人が指導的役割を果たしてきたのは、心の何処かにこの教訓があり、人生の指針になってきたからではないか」と語り、「ブラジル全体で人づくりをすることが、次なる二百年に向けた我々の責任だ」と見通した。
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永田久前会長は、1952年渡伯。ブラジル力行会の戦後移住の第一陣で、「当時は日本の青年は働かないから、受け入れたくないという風潮が会のなかにあった。〃アプレゲール(戦後)〃と呼ばれましたよ」と往時を懐かしむ。「でも真面目に働き、80点をもらいました。一応合格点だったんでしょう。戦後移民を受入るかどうかの試験だったようです」と豪快に笑う。その後、アリアンサ移住地に入植。戦後入植者は殆んどいないなか、14年ほど百姓として働き、日本語学校で無料で日語を教えていたとか。「父からブラジルに行けと言われて来ましたが、居心地が良すぎて現在に至ってしまいました」と謙遜するが、教養雑誌「のうそん」を40年来発行する傍ら、力行会の活動に精を出すなど、父・稠さんの志をしっかりと引継いでいるようだった。