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県連故郷巡り=ブラジル/ポルトガル/日本=不思議な〃三角関係〃=第3回=日本人奴隷も陸揚げされた港か

19世紀末までにポルトガル帝国が領有した経験を持つ領域(By The Ogre at English Wikipedia / [Public domain or Copyrighted free use], via Wikimedia Commons)

19世紀末までにポルトガル帝国が領有した経験を持つ領域(By The Ogre at English Wikipedia / [Public domain or Copyrighted free use], via Wikimedia Commons)

今は観光客が詰めかけるプラッサ・コメルシオ。かつて日本人奴隷もここで陸揚げされた

今は観光客が詰めかけるプラッサ・コメルシオ。かつて日本人奴隷もここで陸揚げされた

 主要河川のテージョ川が国の中央を東西に横切って流れている。大西洋から5キロさかのぼったあたりがリスボンのセントロ地区で、大航海時代の港だった。今は「コメルシオ広場(プラッサ・コメルシオ)」と呼ばれる川沿いの広場だ。
 カルラさんは一行を案内し、「ここに外洋船が乗り付けてアジアやアフリカから持ってきたピメンタ(胡椒)、クラーボ、カネーラなどの香辛料を陸揚げした。もちろん奴隷も」と説明したのを聞き、衝撃が走った。
 「ここに日本人奴隷も陸揚げされたのか?」と質問を投げかけると、「日本人奴隷のことは良く知らない。でも奴隷はみなここで売買されたと聞いているわ。明日のガイドの方が詳しいはずだから、彼女に聞いて」とはぐらかした。
 さきほどまでは伯ポ関係が中心だったが、ここへきてついに日ポのタダならぬ深い関係が出てきた。16世紀後半、ポルトガル商人によって日本人が奴隷として連れ去られ、なかにはリスボンまで運ばれた者もいたらしい。その歴史的現場が、まさにここなのだ。
     ☆
 日本人奴隷が何人ポルトガルまで運ばれて来たのか――これを裏付ける歴史的な資料は一切ない。博学で知られる故中隅哲郎さんの『ブラジル学入門』(無明舎、1994年、以下『入門』と略)には、《(日本では)一五五〇年から一六〇〇年までの五十年間、戦火に負われた多くの難民、貧民がポルトガル人に奴隷として買われ、海外に運ばれていった》(164頁)と記述されている。
 『近代世界と奴隷制:大西洋システムの中で』(池本幸三/布留川正博/下山晃共著、人文書院、1995年、158~160頁)には、次のような記述がある。
 「一五八二年(天正十年)ローマに派遣された有名な少年使節団の四人も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。『我が旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった』『全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか』といったやりとりが、使節団の会話録に残されている」
 この《世界各地》にはマカオ、ゴアなどのアジア地域は当然入るだろうが、リスボンが入るのかははっきりしない。(つづく、深沢正雪記者)