よく探してみたら、ポルトガル国内に日本人奴隷がいたことを示す記述を見つけた。
ポルトガル人宣教師は、同胞商人による日本人奴隷売買をひどく嫌がって本国に取締りを要請し、1570年9月20日にドン・セバスチャン王は禁止令を出したが、効き目はなかった。
それに関して中隅さんの『入門』165頁)には、「この現象を嘆いて、ポルトガルの碩学、アントニオ・ヴェイラはこう言っている。『法律というものはあっても、違反者は絶えないものである。例えば日本人を奴隷にすることを禁止する法律が制定されているにも拘わらず、ポルトガル国内には多数の日本人奴隷の存在する事実によって、これを証することが出来る』」とも。
つまり、16世紀後半のポルトガル国内には「多数の日本人奴隷が存在する事実」が記されている。であれば彼らはコメルシオ広場で上陸し、売られていった。
中隅さんは『入門』の中で、南蛮船1隻あたり200人くらい積んだことから、日本人奴隷全体で「2万人」と推測した。ただし日ポ両国の遠さと奴隷貿易の採算を考えると、大半はアジアで売られ、はるばるリスボンまで連れて来られたのは多くても数百人程度か―と記者は考える。
天正遣欧少年使節4人も1584年8月11日、この広場に上陸した。今から433年も昔だ。当時、長崎を出発してから実に2年半がかりだった。出発から8年後にようやく帰国という「世界旅行」だった。
日本と欧州の最初の接点はこの港だ。そんな感慨に慕っていると、テージョ川の上をやさしく涼風が吹き抜けていった。
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故郷巡り一行は次に、アラブ風の街並みが残るアルファマ区へ向かった。人ひとり通るのがやっとの石畳の狭い道を抜けると、車一台がようやく通るクネクネの迷路にでる。2階以上の窓には洗濯物がヒラヒラと干されているのを、観光客が珍しそうに写真を撮っている。たしかにブラジルでも街路に面した処に洗濯物は干さない。
ガイドのカルラさんは「ポルトガルはタイルが有名だけど、もともとはアラブ人が持って来たもの。ここの地点からリスボンが始まり、コメルシオ広場のあるバイシャ地区に広がっていった」と説明した。
一行の小池みさ子さん(80、長野県)は、「狭い街路で、最初はリオのファヴェーラ観光みたいだなと感じたけど、石造りの伝統建築でできた高級感がただよっている点が違っていたわね」とコメントした。
隣にいた磯順代さん(じゅんよ、78、福島県)=インダイアツーバ在住=はカンピーナスで12年間、旅行社を経営していたというが欧州観光は初めてだとか。「洗濯物を干しているのが珍しいと観光する感覚が不思議。日本だってズラーと布団を干したりするでしょ」と首をかしげた。(つづく、深沢正雪記者)