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わが移民人生=おしどり来寿を迎えて=(81)=山城 勇

 15歳の山戸少年は笠戸丸移民の構成家族の一員として単身ブラジルに乗り込んできた。

 山戸はブラジルで5年間働き、沢山のお金を儲けて沖縄に帰国する計画でした。

 

 1908年4月28日、祖父や叔父、従弟たちと感動的な別れを告げ不安の中にも希望に燃えて神戸港を笠戸丸で出発した。

 

 移民者165家族781名、その中の325名が沖縄県人だった。

 同村出身の2才年下の儀保蒲太少年(後の有名な賭博師イッパチ)がおり、2人は仲が良く、山戸はイッパチを実弟の様に可愛がり、イッパチも彼を慕っていたそうです。

 

 1908年6月18日の夜、はじめてみるブラジルの姿が山頂の灯りでした。

 

 翌朝、特別の列車に乗りおよそ1時間後に移民収容所に到着した。

 乗船中、移民者のお金が盗難や紛失防止の為にと云われ、信用して移民会社に預けた金が返して貰えず、その儘になって移民たちは初めて移民会社に騙されたことに気付いたそうです。

 

 これが初期移民の苦闘の第一歩だった。

 

篠原恵美子―― 山戸は、イトゥーにあるフロレスタ耕地に配耕され、地主はフォンセッカと云う人でした。

 農場まで約300kmの道のりを汽車で運ばれたが、動物の様に牛車の中で立った儘運ばれたのでした。

 

 食事は矢張り干し肉の臭いのする食事でした。食後皆ベット作りの為、原野に木材を切りだしに行き、何本かの木材を縛りつけてベットの台を仕上げそれから幾つかの袋にトウモロコシの葉を詰めこんで敷布団を作りベット台の上に敷いた。

 

 それから各家長へ農場主から一冊の購入帳が渡され食品や日曜雑貨の購入の際に記帳し給料日に差し引く事になっていた。

 

 最初は物を買うにも言葉が通ぜず手真似でやりとりする会話で非常に困ったようです。

 

 大人たちは朝5時に鐘の音で起されカフェ園へと出かけ夕暮れまで働いた。

 山戸少年はまだ年若いので山羊の世話や掃除番に当てがわれ、さほど苦しい仕事には当てられなかったそうです。

 

 

 大人たちは、時が経つにつれ仕事をして得る収入と売店への支払いのバランスが採れず、借金は重むばかりで到々堪え切れず3ヶ月後に夜逃げして、残されたイッパチと山戸の2人は相談して農場からイトゥーの町まで30kmの距離を空腹をこらえて歩き、やっと深夜に町に辿り着いたとのことです。

 

 

 翌朝一軒一軒とゼスチャーを交えて仕事の交渉をなし、イタリア系のブラジル人に家事奉公として、1ヶ月20ミル・レイスで雇われた。

 その家で2人は3ヶ月働き貯めた金でサンパウロへ行くことを決めた。