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県連故郷巡り=ブラジル/ポルトガル/日本=不思議な〃三角関係〃=第14回=鹿児島のベルナルド、移民の先人

セ・ノヴァ大聖堂(Se Nova Catedral de Coimbra)の正面

セ・ノヴァ大聖堂(Se Nova Catedral de Coimbra)の正面

 1557年、日本に帰る準備をしている最中に死んだ男――。

 現地ガイドのミライさんにプラッカがなかったことを報告すると、「あそこに埋葬されているのはベルナルドよ。あそこはコレジオ(教理学校)として始まったので、ベルナルドはそこで勉強をしていて亡くなったと聞いているわ」と即座に答えた。ミライさんはコインブラ大学を卒業し、1980年頃からガイド業をする現地通だ。

 ベルナルド――。すごい名前が出てきた。通称「鹿児島のベルナルド」。「鹿児島出身で洗礼名がベルナルド」しか分からない人物で、本名は記録に残ってない。

 調べてみると、1584年8月にリスボンに到着した天正遣欧少年使節4人よりも、30年も早くベルナルドはリスボンに来ていた。公式な記録上、「日本人初の欧州到達者」はベルナルドだ。

 さらに、1549年8月15日に鹿児島から日本上陸したフランシスコ・ザビエルから、最初に洗礼を受けた日本人でもある。以後、ザビエルが滞日した2年間、同行してその活動をささえた。

 ザビエルが1551年11月に離日した際、一緒にインドのゴアまで行った4人の日本人の一人でもある。記録によれば、ゴアのイエズス会学校で学び、さらに深く勉強するために1553年9月にリスボンに到着。1554年2月からコインブラの教理学校で暮らし、イエズス会員になるべく養成講座を受ける決心までした。

 ローマにいたイエズス会創立者にして初代総長イグナチオ・デ・ロヨラは、彼に関心を持って呼び寄せて対面し、なんとローマ教皇パウルス四世への謁見も許された。当時としては破格の待遇だ。

 大聖堂で購入した本『A Sé Nova de Coimbra』(Maria de Lurdes Craveiro, Antonio Júlio Trigueiros共著,Drecção Regional de Cultura do Centro刊)を探してみると、《ベルナルド・ジャポン修道士はこのコレジオ・デ・コインブラで1557年、ローマから戻り、インドへ行く準備をする途上で亡くなった》《コレジオ・デ・コインブラの旧教会に埋葬されたと思われる》(18頁)としっかり記述されていた。

 長い航海を乗り越え、異郷でたった一人の日本人として生活するストレスに耐える中で、病にむしばまれたようだ。何年も日本語をしゃべらない、聞かない生活だったに違いない。

 現在の大聖堂は1598年に建設が始まっているので、厳密にロヨラの祭壇の前かどうかは分からなそうだ。でもその以前にイエズス会がポルトガルで最初の1547年に作ったコレジオがここにあった。同じ敷地のどこかであることは間違いなさそうだ。

 このコレジオからアフリカ、インド、アジア、日本、ブラジルに向けてイエズス会の宣教師が旅立っていった。そこでベルナルドもイエズス会に入会して宣教師になるべく勉強をしていた。つまり「日本人初の欧州留学生」でもあった。(つづく、深沢正雪記者)