ベルナルドはイエズス会総長ロヨラに気に入られ、教皇謁見までさせてもらった。だからロヨラが創立した大聖堂の彼自身の祭壇に埋葬されてもおかしくない。
ネット検索すると、ノヴァ・デ・リスボア大学人文社会科学学科(IHA-FCSH/NOVA)の学生アレシャンドラ・クルベロさんの論文「コインブラの視点」の要約を見つけた。ベルナルドについて書いてあり、《ベルナルドはアジアへ帰還しようと準備中に亡くなった》とあった。
同論文には《欧州初上陸の日本人であることに加え、彼には欧州キリスト教世界の威光を日本人に伝える重要な使命が、イベリア半島の議会やローマ教皇庁から期待されていたので、ベルナルドのあまりに早い死に落胆が広がった》とある。
イエズス会には、日本人に教理をしっかり学ばせ、彼から日本に布教をさせる構想があった。だが客死した。それを受けて天正遣欧少年使節が計画されたようだ。
たった一人で日本まで数年もかかる異郷でキリスト教を学び、祖国に帰る直前に客死――。
残念ながら日本では、「無事に帰りついた人」しか「海を越えた日本人」として評価されないきらいがある。移民のように出っ放しの人や客死した人は、あまり評価されない。だから天正遣欧少年使節はよく振りかえる企画展示などが行われるが、ベルナルドはさほど注目されない。
だがブラジル在住者にとってベルナルドは「最初に西洋世界で骨を埋めた先達」でもある。ブラジルも西洋世界の延長であり、ブラジル在住者にとっても「移民の先人」と言えなくもない。
ベルナルドが伝えようとしたカトリックは、江戸時代に禁教されて水面下に潜った。江戸初期に幕府の拷問で殉教した「バスチャン」なる伝道士の予言「七代耐え忍べば、再びローマからパードレ(司祭)がやってくる」を信じた隠れキリシタンはひたすら耐えた。
そして実際にほぼ7代が過ぎたころである幕末、大規模なキリスト教徒迫害「浦上四番崩れ」(1867年)が起きた。そんな社会的な圧力を受けて、1908年にカトリック大国ブラジルへの移住が開始されると、隠れキリシタンで有名な青木家や平田家などは一族で大挙して海を越えた。
彼らの一部はサンパウロ州ノロエステ線のプロミッソン植民地のゴンザガ区に集住し、1938年には彼らの故郷・福岡県今村にあるサンミゲル教会の複製、クリスト・レイ教会を建立した。ベルナルドが伝えようとした教えは日本移民と子孫に伝わった。
一世本人が仏教徒であっても、子供がカトリックである場合、親の葬儀は教会で行われることが多い。仏教徒として生まれても、キリストのご加護のもとに、それぞれが想う「天国」に向かうのがブラジル風だ。日本の人に比べれば、ブラジル在住の日本移民と教会は関係が深い。
つまり日本移民にとっては、このノヴァ・セ大聖堂(住所Largo da Feira dos Estudantes, Coimbra 3600-213)こそがポルトガル旅行のハイライトの一つだと確信した。(つづく、深沢正雪記者)
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