私が嫁いだ所は郡が違う遠い場所でした。まだ今まで一度も見たことがないところで、そこは田も畠も高い所にありました。これまで会社勤めをしていた私には、段々畑を早足で歩いたり、坂を駆け上ったりする事はとてもキツいことでしたし、なかなか大変な仕事でした。しかし一生懸命頑張ったことは確かで、百姓生活にもだんだん慣れてきました。
満州から帰ってから土地を当たり、畠を始めたのです。そう楽々と作れるわけはありません。でも地主の人はとても理解のある方で、歩合を払わなくても良い、獲れたものは全部あげると言って下さいました。私たちは有り難く思い、主人はそのお礼にと度々その方の仕事も手伝っておりました。
地主さんには1人息子がいましたが戦死されたそうで、嫁と孫娘(当時10歳位)が1人いました。そこは土地もあり、牛も1頭飼っていました。初めから日本にいる人は土地も牛も持っていますが、浜田家は何でも獲れたものを売って、そこからが始めの一歩。ですから皆がんばって働いたものです。
一生懸命働いている内に、ブラジルのパラナ州から西川吾一さんという人が、自分の土地へ家族を連れに帰ってきていることを聞いたのです。日を決めて、私のお姑さんと主人がブラジルの話を聞きに行きました。すると、自分のソブリンニョも「家族が欲しいから連れて来てくれ」と頼まれたということを聞いて帰り、すっかりその気になったのです。
さあそういう事になると、私の方はたまりません。父母や兄弟と別れて、はるばるブラジルへ行ったら二度と会えない、会うことが出来ないと思って、父母に話をしました。すると父は「そう言うのなら、若いうちにフンパツ(がんばって一生懸命にやること)してやりなさい。行きなさい」と言ったのです。さすがに母親は優しく、「1人ずつ子供を分けて、あなたは行かずに残りなさい」と言ってくれました。
私の父母はイトコ同士でした。私はいつも両親を尊敬しておりました。今でもそうです。母が言ったことも決して女々しいことではなく、私のことを思って言ってくれた言葉だったと思います。父の言葉も立派だと思いました。いずれにせよ、私が決心しなければなりません。
日本では炭焼きも長年しました。炭俵にもちゃんと品質検査があり、良質の炭を焼けば良い値段で売れます。おかげさまで、いつも検査は良好でした。高い山で稲を作って収穫し、運び下して帰る時でも、炭俵を運んでくる日も、明るい内に帰ったことは1日もありません。慣れたら暗い道でも平気でどんどん歩けます。
主人が一度だけ「こんなにしんどいキツい仕事をしてもブラジルへ行くのは嫌か?」と聞いたことがありました。それまでは、どちらも一度も仕事が大変だとかキツいと言うことはありませんでした。自分でもなぜだか分かりませんでしたが、この時「一緒にブラジルへ行くよ」と言ったのです。
昔の日本人は思ってもあまり表情に出さない人種で、今の若い人とは全然違います。私だって主人にもやさしい言葉も言わず、ただ働いて子供の世話や炊事等をすれば良いと思っておりました。
ブラジルへ行く準備をして、いよいよ出発の日が決まりました。私たちを含めた同じ部落の14家が、アメリカ丸という名の同じ貨物船に乗ることになりました。出航前に神戸の斡旋所に約10日間滞在し、ブラジルへ行ってからの心得やブラジル語の勉強をしました。私は子供を連れているので、いつも習うことは出来ませんでしたが、行ける人は講習を受けていました。