ホーム | 文芸 | 連載小説 | 回想=渡満、終戦、そして引き揚げ=浜田米伊 | 回想=渡満、終戦、そして引き揚げ=浜田米伊=(9)

回想=渡満、終戦、そして引き揚げ=浜田米伊=(9)

 すると思いがけなく、そこの地主の国井さんという人が、こちらが払った分をそっくり持ってきて返して下さったことには、みんなが驚きました。こちらがやめたものだから、そのお金を返してもらえる等とは誰一人思っていなかったのです。ブラジルにもこんなに心の温かい人がいるものだと、有難く思いました。
 こんな事で、1962年に自分の土地に入植したのです。荒山は大きなマット(ジャングル)で、大木のペローバの樹が周りを暗くするほど立ち並んでいます。ペローバの木がある所は土地が良く肥えていると聞きました。また、その材木を売れば土地代が出るとも言っていた人がいます。そこへは日本人ばかり、いや、戦後移民ばかりが33家族入りました。3人ほどブラジル人が入っていましたが、地主は日本人でした。
 自分の土地へ来てからはエンセラード(ビニールシート)を張ってバハッカ(仮小屋)にし、その中で寝起きして近くの日本人の家で毎日毎日水をもらい、担いで来て炊事や洗濯をしていたものです。その内にカレヤド(道)を作ったり、井戸を掘ったり。屋根はタビンニャで、家の回りはパルミットの枯れたものを2つ割りにして壁を作ったりして簡単な家を造って入りました。
 この時、私は三男を身ごもっており、荒山の仕事は出来ず、毎日水をもらって担いできては炊事をしていました。アルモッサはいつもお姑さんが家へ取りに来てくれました。棒の前後へバケツを少し長く取り付け、肩で担ぐことは、何年も百姓をしてきた私には平気でした。ですが、もうすぐ産まれそうなお腹をして、担いでアレイア(砂)のカレヤドを歩いてバハッカへ戻るのは大変なことでした。
 1962年の11月25日に、やっと家も出来上がり、道も拓けて井戸も出来上がったというので、やっとバハッカから出て家へ落ち着きました。翌日を1日置いて次の11月27日に男児を出産。これが三男です。
 もう少しゆっくりしていたら、バハッカの中で生まれるところでした。そこで生まれたら、まだまだカレヤドは道がデコボコしているので、しばらくの間は車で下りて来れないところでした。運が良かったと思います。
 話は前後しますが、自分の山へ入る前、ブラジル人に頼んで伐ってもらっていました。その年は雨が多く、倒した木の葉も枝もよく乾かないので困っていました。よくセッカせずに焼いても不焼けになり、もう一度枝を切り落として集め、焼かねばなりません。こうなったら何倍も役がかかります。
 枝落としが終わると、もう一度焼いて、コーヒーのコーバ(穴)を同じく正しく掘れるように焼き直しをするのです。大きな木やトッコ(株)が一面にありますから、火は幾日も煙っています。
 長い長い強いリンニャ(線)へ4米四方にビラビラした布を取り付け、両方の端で強く引っ張って、その印の下へエンシャドン(鍬)で仮にマルカ(しるし)をしておきます。そして後でそのマルカの所へ本式にコーバ掘りです。縦横20糎と30糎位のくけいで、深さは25センチくらいのコーバ(穴)を掘っていきます。
 山刈りもコーバ掘りもブラジル人を雇ってやってもらいます。コーバ掘りは自分でも大方出来ますが、トーラ(大木)を伐ることは全部外人でなければ出来ません。この土地はとても良い土地で、一生懸命コーヒーの樹を育てました。
 コーバの中へは6カ所、2粒ずつ実を入れて植えます。パラナ州のコーヒーはおいしいと聞いておりました。