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回想=渡満、終戦、そして引き揚げ=浜田米伊=(11)

 苦しみや悲しみにうち沈んでいる内に時が経ち、翌1975年7月18、19、20日の3日間、朝に大霜が降り、コーヒーの木は全滅。この時はさすがに私でも希望を失い、元気もなくなってしまいました。
 この頃のコーヒーの木は12年木となっており、毎年大成りが続いていたのです。また、買ったばかりの車の支払いも残っておりましたし、コーヒー園の肥料や消毒薬の借金もまだありました。しかしロンドリーナの事業団が植民地全体を支援してくれていて、お互いに保証人になったりなってもらったりしていたおかげで、援助をしていただきました。
 これから先は長男が家長となって家族を引っ張っていってくれなければならないかと思うと、長男が可哀想に思えてなりませんでした。日光植民地には同じように家族の手伝いをして働く青年はたくさんおりましたが、皆それぞれに父親がいて、精神的な苦労を負うことはなかったからです。しかし息子は愚痴一つこぼさず、黙って一生懸命働いてくれました。
 大霜の被害は痛手であり、あれからパラナのコーヒーはほとんどなくなってしまいました。みんながパスト(牧草)で、カフェザール(コーヒー園)など、どこへ行っても見られなくなりました。大霜害の後は伐根をしてムーダ(苗)を植えたりしておりましたが、米やフェジョンなどを植えるどころか一面に草が生えてひどい状態。これでは見込みがないからと、とうとう土地を売ってサンパウロへ出ることにしました。
 長女はパラナで結婚し、その頃は2歳と4か月の男の子がいました。3人の子供は先にサンパウロへ出て働き始め、長男の憲一は土地を売ったり全てきれいに整理してから、1977年9月11日にジェンホ(ムコ)が雇ってくれたカミニョンに乗り、私と11歳の四男と9歳の末娘と一緒に夜行で植民地を出たのです。
 次男はサンパウロへ出て、私のもう1人のクニャーダの世話でガルボンブエノ街にあった南米銀行で働き始めました。次女はリベルダーデで学生寮のドーナ(女主人)の炊事場で働き、三男はテレビやラジオ、グラバドール(録音機)等の修理工見習いで、リオペケーノからオザスコへ通っておりました。皆、何年も働いたものです。
 私たちが合流してからは、住み込みの次女以外は皆で一緒に住んで仕事へ通いました。私は植民地にいた時は働いていましたが、サンパウロへ来てからは何もせず、小さい子の面倒を見たりしていました。子供が大きくなってからは、皆さんのご承知の通りで遊んでばかりです。サンパウロへ出てから9年間はどこへも出ませんでしたが、趣味を持ったら何でも止まりません。
 子供たちも、父親が早くに亡くなったにもかかわらず、真面目にやってくれたので、本当に有難く思っています。人様のような成功者は1人もいなくても、お陰様で皆さんから温かい支援をいただき、毎日毎日を元気に暮らすことができていることを感謝している私です。
 色々と書き足らないことは一杯ありますが、これにて終わりとします。誠に取るに足りないようなことも書いていますが、ヒマな時に御読笑下さい。ありがとうございました。