1543年、日本人が初めて接触したヨーロッパ人はポルトガル人であった。以来、ポルトガル人と日本人の間には活発な交流が行われたが、16世紀後半から17世紀初頭の鎖国令発布までの国際交流の様子がつぶさに、しかも美しく描き上げられた屏風画がある。Byoubu(屏風)由来の言葉 Biombo(ポ語)に描かれたポルトガル人と日本人の風俗画である。
それはそのまま両国の歴史を映し、「南蛮人渡来図」、「南蛮船入港図」、一般的に「南蛮屏風」として総称され、広く知られ、ポルトガルや日本国内の美術館ですでに鑑賞された方も多いと思うが、私は偶然に、ポルトガル語版美術本『南蛮屏風傑作選(Obras Primas dos Biombos Nanban)』という一書を入手した。
この美術書は全体が三部立てに構成され、各章には、リスボン古代美術国立博物館、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館、ポルトのソアレス・ドス・レイス国立美術館、フランス・ギメ東洋美術館、アムステルダム国立美術館(ライクス・ミュージアム)、東京出光美術館、大阪南蛮文化館、神戸市立博物館、長崎歴史文化博物館が収蔵、あるいは個人所有の南蛮屏風や蒔絵などの数々の名品の、全体に金色を施した美しい絵の写真とともに歴史的背景が丁寧に解説されている。
「南蛮屏風絵」は安土桃山(1573―1615)から江戸初期、いわゆる鎖国となった時代(1615―1868)にかけて、日本に来航したポルトガル人と日本人の関係を、中央に金雲を配した六曲(屏風の扇(せん)が六枚あるものを六曲といい、屏風には二曲、四曲がある)が一組で左右対称に描かれている。
西洋と日本の風俗、日本の港に来航したポルトガル船のカピタン(提督)の上陸を迎える宣教師や修道士、乗組員の荷揚げの風景や、ポルトガル人の行列を家屋から覗き見る日本人の大人から子供まで、貿易取引や様々な物品などが忠実詳細で、丹精込めて描かれた一書である。
前述の世界の有名な美術館で、直接本物を鑑賞するのが理想であるが、自分の手元近くに繰り寄せて、絵を眺め、説明を読み、前や後ろと、ページを捲りながら当時の日本の風俗に思いをはせることが出来るのも、このような美術書での作品鑑賞の醍醐味といえよう。
日本人が見た最初の黒船
巻頭の説明によると、「南蛮」は中国語「南の野蛮人」に由来し、日本人は主にポルトガル人を指してそう呼んだ、その南蛮人が日本の港に入港し上陸した時の光景や両国の風俗が写実的に描きだされた点がこの屏風画の特徴であるという。
1591年、豊臣秀吉が肥前長崎、肥後・豊前に外国船の着岸を許可し、それらの港に大きな「黒い船」が入津した。日本人が初めて目にした「最初の西洋船」である。ポルトガルの商人たちは、1543年、東アジア、ゴア・マラッカ、長崎を結ぶ商業ルートを作った。
その大規模な南蛮貿易に従事する大型船は船体が黒くタールを塗って防水保護されていたためポルトガル人が「 nau do trato (キャラベル・カラベル船)」と呼んだ、この船を日本人は「黒船」と称した。
「黒船」というと、日本の開港を求めて相模(さがみ)国浦賀に来航したペリー提督の率いる米国艦隊のことをすぐに思い浮かべる。だが、16世紀に初めてポルトガル船を見た日本人は、それを黒船と呼んだと、1603年に編纂された日葡辞典に記されている。
狩野派・卓越した絵師集団
それではこの屏風絵を描いたのは誰だったのかという興味深い点については、次のように説明されている。
国立歴史民俗博物館坂本満(さかもと・みつる)研究グループや、岡本義人(おかもと・よしとも)氏等によると、現存する91点の作品の、特に当時に書かれた作品は、本格的な画の技術を有する狩野派(Escola Kanō)の絵師たちによるものであった。
狩野派とは初代狩野正信から直系で伝承することを基本とした画家集団で、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、約400年にわたり、時の権力者と結びついて活動した日本絵画史上最大の画派であり、世界でもそういう例を見ないという。
この屏風画を作成した代表的な人物としては、加納光信(みつのぶ)、内膳(ないぜん)、山楽(さんらく)、道味(どうみ)といった第一級の絵師たちの関与が示唆されている。
また、中には作者不明の屏風もあるが、その格調高い筆致やかなり高価で上質の絵具が使われていることから、本格的な漢画を習得し、相当の腕前を持つ絵師の作品であるという。
黒船着岸の絵図は、解説によると、絵師の一人、道味によるものと紹介されている(下段の画2枚)。彼はキリスト教に改宗し、名前をペドロ・狩野・五右衛門之介と名乗ったとある。しかし、改宗した年月は不詳である。
屏風絵の構図
さて、図の構成であるが、日本民族歴史博物館の資料によると、南蛮屏風は3つの類型に分けられるという。
一つは、屏風は6枚に折りたたむものを六曲一隻(六曲一隻)といい、それが左右二組になっているものを六曲一双という。
南蛮屏風の場合は、左の一隻には港に停泊する南蛮船とその船からの荷揚げの風景が描かれ、右の一隻にはキリスト教の僧たちがいる南蛮寺や豪商の屋敷らしきものに向かって歩むカピタン・モール(マカオ総督を兼ねた船長)たちの一行、彼らに好奇心あふれた表情で目を向ける日本人の侍、親子、子供、女性、商人たちという構成になっている。この第一類型が南蛮屏風全体のおよそ半数を占めているという。
屏風絵は、いずれも非常に興味深い風俗に満ち溢れているが、最も印象的なことは色彩が非常に美しいことである。
画全体に金雲が漂い、海岸沿いの緑鮮やかな松の木が美しい、キリシタン僧たちの黒いガウンコートと対照的に、西欧人や商人、侍や女性たちの服装には鮮やかな赤や緑、黄色、縞柄、花柄、格子柄などが非常にモダンな印象を受ける。
動物たちは多くの種類が描かれていて驚きである。例えば、象、サル、ラクダ、白馬、荒々しい黒馬、孔雀といった舶載(はくさい・外国から船で運ばれた)動物が、日本の家畜とともに描かれている。
図ー1の黒船には、大勢の黒人奴隷が積み荷の下し作業に勤しみ、あるいはマストによじ登る奴隷の姿が描かれている。
船の内部は階層構造が明白に描かれ、カピタンの甲板に座すカピタンの椅子は天蓋付きの特別製であり、横には奴隷が侍っている。特等室のような部屋も描かれており、格子状の窓から海を眺める人物は上等な服服を纏い、柔らかい敷物の上に横たわって、ご満悦な表情をしている。
図ー2では、日本家屋の前を行列する西欧人と、黒人奴隷たちを、日本人の母子がのれん越しにのぞき見し何事か囁いている。
あるいは豪族の屋敷に招かれた商人風情の西欧人と談笑する侍や、屋敷の前で子供たちの手を引いて、行列を見学する侍。格子越しに西欧人を見る女たちの顔は好奇心に満ち溢れている。
漆塗りの重箱と蒔絵の硯箱
巻頭頁にはリスボン古代美術国立博物館所蔵の漆塗りの重箱、同じくポルトガルのカラムロ博物館の蒔絵の硯箱などが紹介されているが、それらの重箱や硯箱には、長身で鼻の大きな西洋人が山高の帽子をかぶり白い襞襟を首に巻いた西洋人が珍奇な物品を抱え、大きな傘を差し向ける黒人奴隷と思わしき顔を黒く塗られた人々が描かれている。
以前から南蛮屏風絵図については関心を抱いていたので、この美術書との出会いは幸運であった。屏風傑作選の全てをここで紹介することはできないのが残念であるが、日本語版でも発行され、またユーチューブでリスボン古代美術国立博物館の館長が詳しい説明をする動画も興味深い。
日本民族歴史博物館研究員の大久保純一氏は南蛮屏風が時代を超えて人気を失わなかった理由を次のように述べている。
「旧所蔵者には堺や日本海側の回船問屋などの商家が多いことも、それを物語っている。―中略―鎖国により南蛮貿易が終息した後でも、南蛮屏風の制作が減少はすれど、完全には途絶えることがなかったのも、この主題がキリスト教とは関係なく、あくまでも縁起物として認識されていたからであろう」
日本にとって、最もかかわりの深い外国ポルトガルと日本の国交時の歴史を絵から学ぼうと思うとき、この屏風絵は見て学ぶ面白さを教えてくれる。
【出典】
Editions Chandeigne
10 rue Tournefort – 75005 Paris editionschandeigne.fr
Conposicao em Goudy Acavado de Imprimir, Na Tipografia, 2015
日本民族歴史博物www.rekihaku.ac.jp/