前身をふくめて65年の歴史を持つ日本の中南米音楽専門誌「ラティーナ」(株式会社ラティーナ、本田健治社長)。創刊以来、日本でラテン音楽を紹介し続け、ミュージシャンの来日公演などの興行も行ってきた。今月10日、来伯した本田社長に取材し、これまでの歴史を聞いた。
前身の雑誌「中南米音楽」は1952年、タンゴ専門誌として生まれた。ブラジルなど中南米の音楽を広く取り上げるようになったのは70年代。92年に初代社長の中西義郎さんが亡くなり、その後、本田さんの方針でブラジル音楽の方に大きく舵を切って94年に「ラティーナ」に改名した。公称発行部数7万部で、日本音楽界の一端を牽引する。
日本に始めてアルゼンチンタンゴが伝わったのは27年と早い。その後、都内にタンゴを演奏するダンスホールが増え、34年にタンゴのレコードが販売されると国民的人気を博した。戦中にジャズが敵性音楽とされた一方、アルゼンチンは最後の頃まで中立を保っていたためタンゴは禁止されず、この間にも多くの愛好家が生まれた。
その流れから戦後の日本にはタンゴを聴く土壌が培われていた。でも一個人が地球の反対側の情報を手に入れるのは至難の技。愛好家の間では日本語によるタンゴ情報を求める声が高まっていた。そこで本人も愛好家だった初代社長が中心となり、「中南米音楽」が創刊された。
ボサノヴァは60年代に日本に入ってきたが、最初はブラジル音楽としては認識されていなかった。本田社長は「当時の日本人はブラジルに対して土着的で後進的なイメージ。でもボサノヴァはおしゃれで洗練された音楽。レコード会社はボサノヴァをブラジル音楽として売り出したくなかった」と話す。海外の音楽といえばアメリカが主流の時代。タンゴ以外の中南米音楽を積極的に聞く人はごく少数だった。
80年代にブラジルの音楽家が来日公演を行うようになり一般化した。中南米音楽社自ら公演を企画。誌面で来日ミュージシャンを大々的に取り上げ、ブラジル音楽を浸透させていった。
当時から興行に携わっていた本田社長は「ブラジル音楽はかっこいいものだという絶対の自信があった。レベルの高さを知らしめたかった」と振り返る。本田社長が手がけた来日公演は実に150回以上。ジルベルト・ジルやカエターノ・ヴェローゾなどブラジルを代表する音楽家の公演を成功させてきた。
今来伯で本田社長はサンパウロ市で開催された国際音楽週間(SIM)で講演、公演視察を行った。当地について「音楽に携わる人が圧倒的に多い。音楽が生活に身近にあり、関係者が多いからそれだけ良質な音楽が生まれる」と音楽環境を分析した。
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ラティーナ社の本田健治社長は近年の日本の音楽市場について、「20代があまり海外の音楽を聞かなくなっているように感じる。実際に海外に足を伸ばす人も減っている」と言う。有料音楽サービスの普及により、業界全体のCDの売り上げが落ちていることも気がかりだ。一方で「ラティーナが出来ることはまだある」と話す。「例えば、雑誌の購読者や音楽関係者などを巻き込んで、ブラジル音楽を聴くようなイベントを開催したい。雑誌は古い媒体。だからこそこれまで培ってきたものを活用したいと思う」と意気込んだ。日本におけるブラジル音楽普及の第一人者だけに、更なる活躍を期待したいところだ。
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本田社長によると、70年代当時は、中南米に通信員をおき、ブラジルなどの新聞や雑誌の音楽関係の切抜きを日本に送ってもらい、現地情報を入手していた。届く情報はだいたい3カ月遅れ。それでも中南米音楽愛好家には貴重だった。当時のファンは実際の音楽が聞けなくても、雑誌を読んで地球の反対側で演奏される未知の音楽に思いを馳せ、胸を高鳴らせていた。インターネットがある今、聴きたい音楽が簡単に探せるのは便利だが、想像する余地が無くなったのは少し寂しい?