ホーム | 連載 | 2018年 | 半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住 | 半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(1)=「全てを忘れる気で日本出た」

半沢友三郎の壮絶な戦時体験=フィリピンの戦いとブラジル移住=(1)=「全てを忘れる気で日本出た」

当時の記憶を語る半沢さん(右)と妻桂子さん

当時の記憶を語る半沢さん(右)と妻桂子さん

 サンパウロ州アチバイア市の豊かな自然に囲まれた家に住む半沢友三郎さん(82)は、「ヨ(自分)らも終わりかなと思っていた」と遠くを見つめながら回想した。半沢さんは1935年12月22日にフィリピンのミンダナウ島ダバオ市で生まれ、第2次世界大戦時の激烈な「フィリピンの戦い」(日本軍が侵攻したのは1941―42年、連合軍が占領したの44―45年)を少年時代に経験した。引揚げ後、日本で何年か過し、ぶらじる丸第13次航でサントス港からブラジルに降り立った。春の穏やかな風が吹く中、「全て忘れるつもりで日本を出た」とブラジル移住の理由となった壮絶な経験を語り始めた。

 半沢さんの父周作、母ナカは福島県信夫郡鳥川村(現福島市)出身。友三郎さんは6人兄弟の次男として生まれたが、長男は友三郎さんが生まれる前に亡くなっていたので長男同様に育てられた。下の兄弟は上から八郎、久四郎、妹の友栄、千四郎だ。
 ブラジルの日本人移民の多くがカフェザルに入るように、フィリピンでは多くがマニラ麻の栽培に従事した。父はマニラ麻の農場に入った後、日本の兄栄作を頼り、静岡県の蜜柑の苗を取り寄せ、借地で蜜柑を育てていた。
 1941年12月のある日、街から帰って来た父が母と話しこんでいるのを、半沢さんは見た。聞けば、知り合いのフィリピン人が会ってもツンとして挨拶もしなかったそうだ。
 不安を感じた父は「どうも様子がおかしい。米国となにかあったのかもしれない」と母にいつもより早く夕食を作らせた。いつもより早い時間に、なんとなく緊張しながら夕食をとっていると突然ドアを叩かれ、フィリピンの私服警察官が入ってきた。警察官は日本と戦争があったことを説明し、17~18歳以上の日本人男性は収容所に送られると告げた。
 父が連行され、しばらくした後、知り合いのフィリピン人がやってきて「お前らの父親に『収容所となっている日本人学校に家族を連れて行って欲しい』と頼まれた」と半沢さん家族を呼びにきた。収容所では、家族構成や通学者の有無でグループ分けされた。友三郎さんたちは未就学児の兄弟がいたため、一番悪いグループとなった。
 半沢さん家族は浜に近いフィリピン人学校の校舎に送られた。湿気が多く、少し高い土地に建っていた。校舎の入り口には米軍の番兵がつき、収容者を監視していた。また、日本人収容所を探す日本軍の偵察機が飛んでいる間は外に出ることができなかった。
 ある日、日本兵や軍服を着た男性がぎっしりと乗ったトラックが一台、収容所に乗り込んできた。「日本軍が助けにきた」という叫び声が聞こえ、男性らが旭日旗を大きく振って救助に来たことを知らせていた。
 釘付けされた戸が破られ、収容されていた人々が解放された。教室を出た半沢さんは逃げながら廊下に撒かれた石油を見た。「あと少しでも到着するのが遅ければ火が付けられ、校舎とともに燃やされてしまっていた」とゾッとしたそうだ。(つづく、國分雪月記者)