胸がドキドキ。
遠巻きにそっと鍋から離れると、あとは、後ろも見ないで洗面所に駆け込んだ。気持ち悪く吐き気までする。あのしわしわの手がおっかけてくるようで、しっかりと鍵をかけて鍋を触った手をごしごし洗った。
ブラジルの人はこんな恐ろしいものを平気で食べるのかしら。
あの日あんなに奇声を上げたのに一〇年後には私が鶏の足を煮ていた。この方がよっぽどびっくりだ。慣れって恐ろしいものです。
2 バスの切符
サンパウロに着いて一ヵ月たった。住んでいるアパートはタバチンゲーラ街。毎日好奇心の塊で歩き回って、家の近くの様子はすっかりわかった。消防署、裁判所、郵便局、パン屋、写真屋、クリーニング屋、教会、ここはサンパウロの町の中心に当たるところでなんでも近くにそろっている。そうそう日本の映画だけやっている映画館もあった。
二ヵ月すると渡辺さんは私に就職の世話をしてくださった。コチア組合が出版している「農業と協同」という雑誌の編集部に。ピネイロスというところにあるという。
アパートの前の道をまっすぐ上るとジョン・メンデス広場に出る。この広場にピネイロス行のバス停があると教えてもらった。
初日、早めに出かけるとピネイロスと書いてあるバスが止まっている。もう一〇人くらい並んでいる。男は背広、女はスカートにヒールのある靴を履いてみんなきちんとした身なりをしていた。
私も緊張して並んだ。やがてバスの戸が開いてぞろぞろと後ろの入口から入って行く。乗車賃を払うと鉄製の回転戸を回して前方に進んで行く。
私の番が来た。うっかりしていた。いくらなのかわからない、どのお札を出して良いのかわからない、集金係は私に何か言っているがさっぱりわからない。お札を出すと今度はもっと大きな声で怒鳴っている。益々オドオドしていると後ろからさっと手が伸びて、お金を集金男に渡した人がいる。びっくりして後ろを振り返ると若い男性が、前に進みなさいと手で合図している。ありがとうと小さく言って前に進んだ。
乗客がどんどん入ってくるので、その人を見失ってしまった。お礼を言いたくとももうわからない。
翌日も全く同じだった。おろおろしていると見も知らぬ男性の手が後ろからのびて、さっと払ってくださった。今日こそはと小銭を手に持って乗車してもやっぱり後ろの人が私より先に払ってくださる。それが毎日違う人で、みんな男性だった。
とうとう五日間毎日払ってもらった。
翌週からはさすがに自分で払えるようになったが、一人も顔を覚えていない。誰にもお礼を言っていない。
ブラジルの男性は女性に大層親切だと聞いていたが本当なんだ。日本では男性に親切にしてもらうなんてことは一度もなかった。
優しい男性がたくさんいる国なんだ。良い国に来たなー。
3 トロッカ
渡辺さんのアパートのすぐ近所に広島県人会の事務所があって、そこに押岩さんという中年の男性が事務をしておられた。彼は私がサントス港に着いたとき迎えに来てくださった方で、このブラジルで、渡辺さん家族の次にお知り合いになった方だった。