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「フィーリョ・ダ・プッタ!」と怒鳴られた朝

件の女性がコラム子に向かって「フィーリョ・ダ・プッタ(娼婦の息子)!」と怒鳴っている瞬間の映像をイラスト加工したもの

件の女性がコラム子に向かって「フィーリョ・ダ・プッタ(娼婦の息子)!」と怒鳴っている瞬間の映像をイラスト加工したもの

 ドンドンドンドン―――昨年末のナタル(クリスマス)深夜3時、突然、サンパウロ市の自宅マンションのドアを暴力的に叩く音がして、「中央玄関のドアを開けろ!」と怒鳴るかん高い女の声が響いた。「5階住民だ」とピンときた。
 その32歳のバイアーナ(バイーア州出身女性)と恋人の中国人男性は、ナタル前日に中央玄関の電子鍵を無くしたらしく、アパート住民をインターフォンで次々に呼び出し、電子錠を開けさせる行為を繰り返していた。
 昨年9月に強盗未遂事件がアパートで起き、12月に新しい電子錠前に取り換え、出入りに電子鍵が必要になっていたからだ。
 最初こそ、心優しい住民が降りて中央玄関を開けてやっていたが、深夜から早朝にかけて出入りを繰り返す彼女らの行動パターンに誰もついていけず、すぐに皆無視するようになった。その挙句、直接にドアを叩いて回るようになったのだ。恐怖のナタルだ。
 翌朝4時半、こんどはゼラドール(管理人)がうちのドアを叩いて、「問題の女が、中央玄関のインターフォンと開閉センサーを壊したから、誰も出入りできなくった」と報告しに来た。しかたなく下に降りて行き、彼女とのやり取りをデジカメで動画録画した。
 「あなたがこれを壊したのか?」と丁寧に聞くと、「1500回もインターフォンを押したのに、誰も開けてくれなかった。あたしは共益費を払っている。お前はすぐ扉を開けるべきだ。フィーリョ・ダ・プッタ!」と青筋を立てて、ものすごい剣幕で怒鳴り散らしてきた。
 完全に目が座っている。ドラッグだろうか、興奮状態だ。1週間前に渡した電子鍵を二つも無くし、家賃や共益費を3カ月も滞納しているのに、そう怒鳴ってくるかと呆れはてた。
 怒りを抑えるのに心臓がバクバクした。なんて朝だ…。
 数年来、彼女の騒音や異様な立ち振る舞いに、住民はずっと悩まされて来た。深夜に相棒の中国人と大喧嘩をし、怒鳴り声や何かを壊す音を頻繁にさせていた。自宅で安らげない生活だった。
 昨年初めにマンション管理組合の前理事長(二世)は心労が重なって脳溢血で倒れ、コラム子にお鉢が回ってきてからは特に辛い日々だった。
 心労の一つが件の女性だ。倒れた前任者のストレスが、今は痛いほどよく分かる。役員になってからは、言葉の不自由な外国人である悲哀を噛みしめてきた。就任して真っ先にやったのは、以前の怠慢なマンション管理運営会社を辞めさせ、東洋街の大空不動産に替えたことだった。
 件の彼女は他のマンション住民に対し、「私の恋人は中国人マフィアのボスとアミーゴだから、PCC(サンパウロ州最大のマフィア)とつながっている。言うことを聞かないとPCCの暗殺リストに名前が載るわよ」と脅していることが分かった。
 法律を守る気が最初からゼロの相手に、社会の決まりを守らせるのは本当に難しい。この社会の根本的な問題だ。
 放っておけないと決断し、大空不動産の小林優子社長に相談した。彼女の決断は早かった。
 「調べたら、その女性は賃貸で入っていますが、自分の名前で契約していません。契約は、彼女が入居した当時に付き合っていた日系男性です。彼とマンション所有者に直談判して契約解除させましょう。そしたら彼女が住める法的な根拠がなくなります。不法侵入者として追い出しましょう」。そんな手があったかと目からウロコだった。
 コラム子が撮影した狂気の映像を見せると、両者はすんなり契約解除に合意した。このままなら部屋が壊されると恐れたようだ。
 即座に小林さんは「賃貸契約が解除されたので◎日までに明け渡しなさい」との書類を例の彼女に渡した。我々は固唾を飲んでその日を待った…。
 ――だが彼女は出なかった。
 そこからがすごい。
 小林さんは「彼女が建物を出た時に電子鍵をキャンセルしましょう。24時間のポルテイロを雇って、彼女がもう建物に入れないよう警備し、彼女の荷物は賃貸契約した日系人に運び出してもらえばいいです」と提案してきた。
 自分の電子鍵をかざしても中央玄関が開かないことに気付いた彼女は、再び怒鳴り始めた。だが小林さんは一歩も引かず、流ちょうなポ語で「あなたにはここに住む法的資格がありません。もう入ってはいけません」と懇々と繰り返した。身体は小柄だが、芯が太い。
 その日のうちに賃貸契約した日系男性が、例の女性の部屋のドアの鍵を変え、荷物を運びだした。あっけないほどの手際の良さに舌を巻いた。プロの仕事だ。
 ふと「管理会社をもっと早く大空に替えていたら、前任者の脳溢血は避けられたかも」と思った。奇しくもこの追い出しの直前、半身不随状態だった前任者が昇天した。きっと天国から我々の事を応援してくれていたに違いない。
 他の住民の迷惑を顧みず好き勝手に振る舞う無法者や、不法占拠者で困っているマンションは多い。言葉の不自由な一世にとって、頼れる日系不動産屋の存在はまことに有難い。(深)