それもそのはず、この男が「やくざ」だという事が間もなくわかったのだ。前にもこの手で入院してきた同じ男だと看護婦がそっと教えてくれた。二人のチンピラが、常に部屋の出入り口を見張っているそうだ。
警察にも相談したが、「どこも痛くも悪くもないのに、いつまでも病院で寝泊まりして相手を困らせて、お金をゆすり盗るんです。外車に乗っておられたんですか、そりゃあ、やくざに狙われますわい。悪い奴に引っかかりましたなあ」というばかりで何もしてくれない。
車の修繕もすべて終わったが退院する気配は全くない。個室代はバカにならない。
この時代は終戦後の混乱期を経て、ようやく人々の生活も落ち着きを取り戻してきたころだった。が、広島の暴力団は、山口組と反山口組に分かれて一九五〇年ごろから一九七二年にかけて、やくざ同士の抗争が度々あり、中国地方最大の広島拳銃抗争事件などがあったりして、因縁つけたり付けられたり、殺したり殺されたりで、広島市民は戦々恐々としていた。(「仁義なき戦い」と言いう映画は実際に広島で起こったやくざ同士の抗争を題材として映画化されたものである)
こんな時、降ってわいたように我が家がやくざと「おちかずき」になったのだ。
「そっちの親父は何しておるか、顔を出させろ、見舞いに来い」と、たびたび脅迫の電話がかかる。メロンを持ってこい、マスカットを持ってこいと、いやしく命令してくる。
父は絶対に行かない。「商売が忙しい」「向こうがわるい」最後には「ほっとけ」というばかりで相手にしない。行かないと何をされるかわからないので母は度々この貢物を持って見舞いに行った。病院から帰ってくると、「あの男、威張りかえって毎回同じ嫌味をネチネチと言うの、そして根掘り葉掘り家のことを聞いてくる。何を言われてもハイ、ハイと言ってやくざに頭をさげるなんて生まれて初めてよ、なさけないわ」と沈んだ顔に涙を浮かばせている。
家族の会話も少なくなってきた。家の中は暗くなり、笑い上戸の妹までが沈黙している。
一ヵ月たったある日、父が突然病院に行くと言い出した。
「あなた、気に障ることをいうと言葉尻をとらえられて、因縁つけられますよ」
「大丈夫ですか、うちには結婚前の娘がいるんですからね、変なことをされたら大変です。気を付けてください。この頃のやくざはピストルを持っているんですってよ。」
母は真剣な顔で、立て続けに興奮してしゃべった。父は聞いているのか、いないのか、煙草をくわえてフンフンというだけ。
午後、父は出かけた。あの外車に乗って。いつもと同じ仏兆面をして出かけた。
母はすぐに座敷の神棚に向かって柏手を打ち、両手を合わせ、それから台所に行って、ここの神棚にも同じことをし、それから中庭に出て空に向かって手を合わせ、
「大丈夫かしらねエ、相手が相手だから、ちょっと機嫌を損ねると何をされるか分かったものじゃあない」母はため息交じりに大きな声で独り言を言い、私たち姉妹は声を潜めて一緒に祈るような気持ちで母を見つめていた。
夕方父は帰ってきた。車の音がすると母は私たちを制して「向こうに行ってなさい」と小さな声で言った。私たちは無言で廊下にでた。
しかし、父は赤い顔をして上機嫌で帰ってきたのだ。